古典会だより-多摩川-

拝島大師の南方約五〇〇メ-トルに多摩川が流れています。そもそも拝島大師の伽藍建物は多摩川の流れで形成された崖、というより「はけ」と呼ばれる土地に建っています。拝島という地名も、今から約五〇〇年前の戦国時代に多摩川の西南方の対岸の丘陵上にある滝山城から見た時に島に見えるからついたと言います。

多摩川は関東山地南部の山梨県に源を発し、東京都西部、南部を東南に流れて東京湾に注ぎます。水源地附近の谷はツガやモミの原生林で覆われ、アラカシ・シラカシなどのブナ科やアカマツなどがあり、草本植物ではシラン・サイハイランが確認され、一九九九年の調査によると種数合計四二〇種に上るという日本国内有数の植物の宝庫となっています。雲取山や雁坂峠など秩父多摩国立公園の広大な自然は山岳愛好家の一度は訪れたい所です。さて、多摩川は全長一二三キロメ-トル、源流の笠取山附近の谷は標高千メ-トル以上有りますから、水流勾配がいかに急峻かが分かります。三〇〇〇メ-トルから直下する黒部川や南アルプスの諸河川を除けば、急流の度合いは日本三急流と呼ばれる九州熊本の熊川、中部地方の木曽川、富士川を上回ります。利根川や荒川、信濃川などよりはるかに急流です。そのため山谷から流れ落ちた岩石は忽ちに丸く削られて玉石となります。玉石が多いというので多摩川と名がついたのでしょう。因みに多摩川の本流ははじめ市ノ瀬川と言い、北から柳沢川や高橋川、小袖川、南から小菅川などを合わせて丹波(たば)川と呼ばれ、奥多摩町で北から日原川を合わせて多摩川となります。ただ、この間に小河内ダムが建設され奥多摩湖が建造されています。都民の大切な水道水の一部です。ここから鳩ノ巣、御岳渓谷という多摩川渓谷は観光名所です。青梅市を貫流して羽村市に入り、ここで玉川上水に取水します。福生市を過ぎて昭島市拝島町にかかる所で秋川を合流させます。昭島市域の多摩川は最も広大な流域です。立川で村山残堀から来る残堀川、日野市下流で八王子盆地から流れる浅川のほか谷治川・根川・大栗川を合流させ、調布から都内世田谷区にかけて仙川・野川を合流させ東京都大田区と神奈川県川崎市を分けて名前も六郷川と変えて羽田空港辺りの東京湾に注ぎます。海水が多摩川に逆流する塩入川となっています。

調布辺りから多摩川川床はいよいよ拡がり荒れ川の様相を呈してきます。福生、昭島、日野、府中、調布は川砂利の採集場でした。昭島市では取り尽くした川床の下から鯨の化石が出てきました。アキシマクジラと名付けられました。昭島市大神の川原で、丁度八高線の鉄橋のあたりです。昭島市のこの辺まで東京湾が入りこんでいて海の底だったのでしょうか。昭島市の多摩川砂利産業は昭和初年における昭島市の地場産業である養蚕、紡績業の不景気、昭和恐慌から人々の生活を救済したものでした。昭和五年(一九三〇)立川駅から拝島駅の間に武蔵上ノ原駅、郷地、武蔵福島、南中神駅、宮沢、大神、武蔵田中、南拝島駅が延伸開業しました。多摩川の鮎漁の観光に来た人々も多かったようです。武蔵田中から多摩川川原にトロッコ車両ができて砂利採集にピッチが上がりました。戦後の復興期の川砂利採集事業は昭和二、三十年代が最盛期でした。拝島大師の南方に多摩川流域最長のひとつ拝島橋が完成したころ、多摩川砂利産業は終わりを迎えました。後は粘土層交じりの滑(なめ)です。ところが問題が有ります。川原に玉石が無くなり、単なる泥の土となりますと、自然に雑草や雑木が生えて成長します。これは決して古来の多摩川の景観ではありません。

明治三十八年(一九〇五)多摩川の鮎漁を、はじめて世界に紹介した魚類学のヨルダン博士は多摩川のことを宝石の川と呼び、川の水がこれほど澄んだ川を見たことが無いと言っています。旧府立二中(現、都立立川高校)の校歌に「玲瓏の水百万の民の命を繋ぐもと」とあります。東京人口が百万人ならば多摩川だけで十分だったのでしょう。現在でも利根川の水より多摩川の水の方が美味しいと言われます。

多摩川は洪水常習の荒川でありましたが、広大な洪水氾濫原は肥沃な土壌の農耕地で、稲作の他に多摩川梨や柿、栗などが名物です。

昔は蛇籠とよぶ護岸用具が多摩川のどこにもありました。周辺住民が孟宗竹で七、八メ-トル、直径五、六〇センチメ-トル位の長い籠を作り大きめの玉石を入れてテトラポットにしたものです。多摩川は地域の人々に維持管理されて来ました。そのかわり水も玉石も地域の人々の生活環境に利用されてきました。昭島市には玉石利用の石垣が中神坂のほか随所に見られます。昭島市は多摩川との共存共生の典型地区なのです。

赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らん
多摩川に さらす手作りさらさらに 何そこの児の ここだ愛しき
『万葉集』