『万葉集』巻一の冒頭には5世紀後半頃活躍した雄略天皇御製歌に「籠こもよ、み籠持ち、掘串ふくしもよ、み掘串持ち、この岳をかに、菜摘なつます児、家聞かな、告のらさね、そらみつ、大和やまとの国は、おしなべて、われこそ居れ、しきなべて、われこそ座ませ、われにこそは、告らめ、家をも名をも(籠も良い籠を持ち、土掘り道具の掘串も良いのを持って、この岡で若菜をお摘みの娘さん、あなたのお家は何処か聞きたい。言ってください。大和の国は私こそが一統に治めているのだけれど、私にこそは教えてくれますか、あなたの家をも名をも)」と若菜摘みが歌われます。
平安時代の『古今和歌集』では「君がため春の野にいでて若菜つむ、わが衣ころも手に雪はふりつつ」とあり、清少納言『枕草子』では「正月一日は、まいて空のけしきもうらうらと、めづらしうかすみこめたるに、世にありとある人は、みなすがたかたち心ことにつくろひ、君をも我をもいはひなどしたる、さまことにをかし。七日、雪まのわかなつみ、あをやかに、例はさしもさるもの目ちかからぬ所に、もてさわぎたるこそをかしけれ(七日、雪の間の若菜摘み、青やかな菜を、普段はそんな菜など気にもしないのに、大騒ぎして集めるのが面白い)」「七日の日の若菜を、六日、人の持て来、さわぎとり散らしなどするに、見も知らぬ草を、子どものとり持て来たるを、『なにとかこれをばいふ』と問へば、とみにもいはず、『いさ』など、これかれ見あはせて、『耳無草みみなぐさとなんいふ』といふ者のあれば、『むべなりけり、聞かぬ顔なるは』とわらふに(七日の日の七草粥のための若菜を、六日、人が持って来て大騒動でとり散らかしている時、見も知らぬ草を子供が採って来たので、『これは何という菜なの』と問うと、すぐには答えず『さあ』と、互いに顔を見合わせて、『耳な草とか言いますよ』という者がいたので、『なるほど、聞こえぬ風だもの』と笑った)」とあるように、正月七日の若菜つみは、野遊びと食べる楽しみを兼ねたもので、五節供の一つとされ、七日に七草つまり七種類の菜を粥にして食べ、春の祝い、福寿の願いとしてきました。ただし明治時代以前は旧暦ですから今の暦とではほぼ一ヶ月遅れの期日です。
春夏秋冬、四季の変化に恵まれた日本は、季節毎の節目を大切にして来ました。青龍の春、朱雀の夏、白虎の秋、玄武の冬(玄は奥暗いの意)、それぞれの季節の移動の時期が土用で黄色です。お正月飾りやお祝いの五色の幕は、単に綺麗というだけでなく季節の順当なめぐりと無事への願いがこめられているのです。
七草の名が特定し始めるのは室町時代ころからで、一条兼良の『年中行事秘抄』や、公卿の備忘録的著書『拾芥抄』などに書かれ、江戸時代には五節供→五節句となり、一月七日の七草、三月三日の雛祭り、五月五日の端午、七月七日の七夕、九月九日の重陽と祝い、七草は「セリ、ナズナ、オギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロこれぞ七草」と定まりました。
△薺ナズナ、アブラナ科、日の良く当たる道端、野原、畑などいたる所に自生する二年生草本。世界各地に分布。冬至の頃根生葉が地面に接して叢生し(ロゼット)、冬を越し、春先には中心から茎が伸び、茎は根元で分枝、茎葉は無柄、春、米粒より小さな白い四弁の十字花をつけ、花の後、平たい倒三角形の果実となり、その形から三味線のバチに見立ててぺんぺん草、三味線草とも言われます。『物類称呼』(一七七五年)に「花咲く頃、ばちぐさと言い、江戸にてぺんぺん草、尾張にてぢぢのきんちゃく、ばばのきんちゃくという」とあり、学名は「小さい花」「羊飼いの財布」の意味で英語、ドイツ語、フランス語とも共通し、ナズナの実を、三角形の口を絞った巾着きんちゃくに見立てたは、洋の東西を問わず同じです。
『神農本草経』(五世紀)にナズナの薬効として「晴光、すなわち瞳の光を益し、風、寒、湿の気からの痺しびれ病を治し、肝、心、脾、肺、腎の五臓の気を補い英気を養う」とか。
若菜を摘んだら、七草粥に炊き込むだけでなく、さっとゆでて、おひたしやごまあえに。細かく刻んで、酒と塩で調味したたきたてごはんに、セリなどと混ぜて蒸らしてもおいしい。春の喜びを味わってください。
『枕草子』「草は、蓬よもぎいみじうをかし。山菅、日かげ、山藍、浜木綿ハマユウ、葛、笹、青つづら。なづな、苗、浅茅、いとをかし」と。
○古畑やなづな摘み行く男ども 芭蕉
○よく見ればなづな花咲く垣根かな 〃
○ひととせに一度つまるる菜づなかな 〃
○妹が垣根さみせん草の花咲きぬ 蕪村
○ひっそりかんとしてぺんぺん草の花 山頭火
同じアブラナ科にイヌナズナ(ナズナに似るが実は長い楕円形で、食用にならない)、ミズタガラシ(湿地に多く西洋料理の添え物になります)などがあります。