拝島大師新本堂 元三大師中堂建立次第(一)

趣意書
当山におまつりするお大師さまは、永観三年(九八五)正月三日の御入滅でありますので、年の元(はじめ)の三日の大師、元三大師と申します。
お大師さまは、五十五歳で十八世天台座主となり、学問の興隆につとめられましたので、日本浄土教の開祖恵心僧都ほかたくさんのお弟子が続出し、また、当時荒廃していた比叡山三塔の建物を復興され、天台宗中興の祖師と目されています。
お大師さまは、生前修法に長じ、広く人々の災難を救い幸福を招きました。その修法霊力はとても人間わざとは思われないので、さぞその御本地はいずれかの仏様であろうと人々は推察していましたが、お弟子の恵心僧都によれば、如意輪観世音ということでした。因みに当山では先に完成した多宝塔にはこの大師の御本地如意輪観世音をまつり、もって奥の院としています。
お大師さまの入滅後、大師信仰はいや増し、画像や木像がさかんに作られ、ことに厄除に霊験があるといわれてまいりました。また、お大師さまは「おみくじ」を創作され人々の迷いに進路を与えたほか、「角大師」や「豆大師」のお札でも一般民衆に親しまれて来ました。
当山拝島大師の御本尊は、大師御自刀御自作の尊像で、久しく比叡山横川の地にありましたが、元亀二年(一五七一)織田信長の兵火により焼尽に帰すべきところ、有難くも敬諶大僧都に救出され、諸国行脚の末天正六年(一五七八)当拝島の本覚院に安置されました。天正六年と言えば、拝島大師の向って左手高台にある大日堂、及び大日八坊にとって大変な危機を迎えた年でした。それは外護者の滝山北条氏が、甲州路からの豊臣秀吉軍の進入に備えるため、城を八王子へ移したからであり、大日堂の栄華ももはやこれまでというわけであります。このような時、御本山から有難い元三大師の御本尊を迎えたこと、暗夜に光明を得たるが如く、民衆の喜こびこれに勝るものはありません。戦国の兵火がようやく終りになる頃、これより今日まで四百余年であります。
当山では、以上の事蹟によりまして昭和五十三年(一九七八)拝島大師奉遷四百年祭を開始しましたが、これは御本尊お大師さまが本山比叡山を出られて、丸七年がかりで、当拝島までこられたということに因み、昭和六十年(一九八五)まで開催されました。この間には、初年の昭和五十三年五月には、当山先住二十九世宗賢和尚発願、総代神保隆治外護になる大梵鐘ちぶさの鐘が鐘堂総欅、一尺五寸丸柱六本、及び鐘の重さ八百貫・約三トンという偉容で完成しました。ついで着手された奥院多宝塔は、これまた総欅、上層下層扇棰木・扇支輪・稚児棟二の鬼付き、四天柱彫刻くずし・如意輪曼茶羅現出その他数え切れぬほどの独創に満ちた空前絶後の至宝の姿を現わし、昭和五十八年五月一日〜八日の間、本山より天台座主猊下を大導師にお迎えし、未曽有の落慶式典が挙行されました。こうした当拝島大師の大師信仰の隆盛・仏法興隆に当り、皆さま方御信徒各位・檀徒各位の並々ならぬ御信助御支援に対しまして、改めてお礼申し上げます。御信徒おひとりおひとりのお大師さまに対する信心こそが拝島大師伽藍のすべてを生み出して参りました。さて、昭和六十年、奉遷四百年祭最後の年ですが、ここに拝島大師新本堂・元三大師中堂の建立を発願致しました。
江戸後期の文政二年(一八一九)当山中興義純和尚が、三多摩武州は勿論、甲州・相州に至るまで広く勧進して完成した現本堂は、如何せん狭小(てぜま)のため、皆さま方御信徒の御参詣、とりわけ堂内での厄除修法等に多大の不便をおかけしています。そこで新本堂を建立し、七堂伽藍の中堂をつくるという企画が発願されたのであります。
新本堂。元三大師中堂は、御本山の国宝根本中堂と旧大講堂とを融合したプランを基本設計としており、それに南都東大寺・京都清水観音堂など、古来の日本の名建築を随所に取り込んだ、恐らく二十世紀最後を飾るにふさわしい一大天台密教建築になります。その詳細は次序、「拝島大師だより・如意輪」でお知らせしておりますが、こうした当拝島大師始って以来の空前絶後の壮挙の発願に対して格別の御理解・御信助・御協力を賜りたく御願い申し上げる次第でございます。

平成三年正月元旦
拝島大師本覚院三十世川勝賢亮 敬白
拝島大師新本堂建立奉賛会発起人一同