大師さま 拝島大師におまつりしているお大師さまは慈恵大師、又は元三大師と称されます。大師とは、朝廷にとっての大先生という意味で、高僧に諡(おくりな)として与えられ、最初の大師号を贈られたのは、天台宗開祖伝教大師最澄です。その後、何人もの高僧に大師号が贈られましたが、お大師さんと呼ばれて拝まれている方は、天台宗の元三慈恵大師、真言宗の弘法大師だと言えましょう。
元三大師とは、言うなれば愛称でありまして、正式の諡は慈恵大師です。 続きを読む
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その35-
○三月十九日、楚州の州刺史(知事)が、酒餞を設け相公を屈したが、相公は出席しなかった。但し判官以下着緋の人びと①が州役所で餞別のもてなしを受けた。朝の斎食後、請益僧円仁らは寺を出て船に赴いた。
○三月二十二日、早朝、沙金大二両・大坂腰帯一②を新羅訳語劉慎言に送り与えた。卯の時(午前六時ころ)、唐側の朝貢使は館を出て、船の処へ往った。同じく参軍已上は皆騎馬である。先触れの役をする喝道の人は八人である。巳の時(午前十時ころ)、御払いをして上船した。航海安全の神である住吉大神を祭った。請益僧円仁らは第二船に乗った。船頭は長岑判官である。第一船は節下、すなわち遣唐大使である。第三船は菅判官。第四船は藤判官。第五船は伴判官。中丞すなわち州刺史が軍将を遣りて九隻の船を監送させた。勅命があり、牒を一行がこれから通過する州県である海州・登州に案配を指示した。第一船の水手甑稻益は従者と死亡事件を起こしていたので取調中、乗船を許されなかった。遣唐大使は船団準備を確認した上で監送の軍将の船に乗った。酉の時(午後六時ころ)、棹を動かして出発、黄河を出て淮河南辺に到って停宿した。
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釈迦如来、お釈迦さまの話―その二十二
仏像の共通性(続き) 観音菩薩は思惟の姿の如意輪観音、自己に加え頭に十方を向く十一面観音、手が千本有る千手観音、馬の頭を付け憤怒像の馬頭観音、その他種々の観音像が早い時期に各地で制作されました。釈迦滅後の未来の仏陀である弥勒もはじめは菩薩像で水甁を持ちます。それが仏滅後五十六億七千万年後に第二の釈迦として龍樹下で悟りを開き弥勒仏となると、禅定の姿で定印を結んでいます。こうした仏像の表現する意味は地域を越え各地で共通性を示しているのです。 続きを読む
【漢字講座】第41 虫、蟲(むし)
今回の漢字は虫。秋の夜長に鳴く虫の声・音楽に耳を傾けましょう。
漢字の虫は漢字の虫扁です。本来の漢字は蟲です。そこで両方を取り上げます。まず虫は本来は日本に住む最も恐い毒蛇「まむし」のことで、まむしの形に象った漢字です。正確に言えば、まむしが寝ている姿です。中国では鱗のある動物を皆虫としました。後に虫扁の漢字を挙げますので考えて下さい。虫は通じて虺(まむし)に作ります。虫の本字は蟲というのは、実は誤りです。蟲は昆虫の総称ですので、こちらが分かり易い「むし」の漢字です。虫を「まむし」とすると、昆虫ではないので、蟲と虫は別字となります。ただ説明のため虫は「まむし」ではなく、昆虫ということで説明をし、虫の本字を蟲としておきます。蟲という漢字の解字をしますと、三つの虫を合わせて、有足の昆虫を汎称しました。三つはその種類、数の多さを表わします。「説文」によれば、足無きいもむしの類を豸とし、蟲は足が有る、有足の虫を表わし、蟲を双方の虫の意味としたというのです。蟲は足があるというより、六本の昆虫、八本の蜘蛛(クモ)、もっと多いムカデ・ゲジゲジ、ムカデの漢字は百足というのは面白いでしょう。でもいくら多足でも百本もムカデの足はありませんよ。百は多いという意味です。 続きを読む
元三大師のお話し(127)
元三・慈恵大師の伝記史料の研究
さて、前号に続き、以下に元三・慈恵大師の伝記史料を順次扱います。原文は漢文ですので読み下し文にし、語句の説明を行い、また当該箇所の史料研究を行います。
第一章 藤原斉信撰『慈慧大僧正伝』(続)
【1-14】摂政藤原朝臣兼家、横川恵心院建立(後半)
先ず慈覚大師の廟に礼し、次いで山王三聖の祠を拝すは、当にこの時なるべし。心中の誓願は、今月の内を過ぐる無く、不日(すみやか)の功を致さんとす。たとえ黄閣の重臣⑧に居ると雖も、願わくは白衣の弟子⑨と為るを許せ、子々孫々久しく帝王皇后の基を固め、生々世々永く大師遺弟の道を伝えん。即ち下山の後、帰第の間に、一百石の米、有る人これを与え、作料に喜充せり、俄かにその材を採る。歳月の裏、土木の功就き、六大観音⑩を刻造し、二天梵釈の仏像⑪を安置し、堂舎の供養先ず訖る。
[語句説明]
⑧黄閣の重臣…黄閣は宰相の庁事の門、転じて宰相のこと。⑨白衣の弟子…仏弟子になること、出家入道になる。⑩六大観音…六観音は六道の衆生をそれぞれ済度する観音、聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・不空羂索観音・如意輪観音。⑪二天梵釈の仏像…梵天と帝釈天。両天は護法神。
[史料研究]
師輔の三男の兼家が父師輔に倣って座主良源の信徒となり、横川に父の遺志を継いで恵心堂を建立する。永観元年(九八三)十一月二十七日、恵心院を供養するため、右大臣兼家公登攀して供養行事を行う。
拝島大師新本堂 元三大師中堂建立次第(二)
昭和五八年五月三日御本山比叡山の山田恵諦座主が親しく語られたごとく、当拝島大師新本堂は比叡山の国宝根本中堂及び旧大講堂を基本モデルとして、これに屋根は東大寺の鴟尾付寄棟(しびつきよせむね)、京師清水観音堂の舞台浜縁を取付けた二十世紀最後を飾る一大密教建築です。
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拝島大師新本堂 元三大師中堂建立次第(一)
趣意書
当山におまつりするお大師さまは、永観三年(九八五)正月三日の御入滅でありますので、年の元(はじめ)の三日の大師、元三大師と申します。
お大師さまは、五十五歳で十八世天台座主となり、学問の興隆につとめられましたので、日本浄土教の開祖恵心僧都ほかたくさんのお弟子が続出し、また、当時荒廃していた比叡山三塔の建物を復興され、天台宗中興の祖師と目されています。
お大師さまは、生前修法に長じ、広く人々の災難を救い幸福を招きました。その修法霊力はとても人間わざとは思われないので、さぞその御本地はいずれかの仏様であろうと人々は推察していましたが、お弟子の恵心僧都によれば、如意輪観世音ということでした。因みに当山では先に完成した多宝塔にはこの大師の御本地如意輪観世音をまつり、もって奥の院としています。
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拝島大師新本堂 元三大師中堂落慶三十年
本年は、拝島大師新本堂元三大師中堂落慶三十年です。江戸時代後期の文政二年(一八一九)、当山中興義順和尚が三多摩、武州は勿論、甲州・相州に至るまで広く勧進して完成した旧本堂は、如何せん手狭の為、皆様方御信徒の御参詣、とりわけ堂内での厄除修法等に多大の御不便をおかけしておりました。昭和五十八年五月三日、多宝塔落慶式に際し、天台座主山田恵諦大僧正猊下は、親しく新本堂元三大師中堂の建立発願を宣言されたのです。当拝島大師にとっての必要性、お座主よりの懇請、伝統建築を造営する学術的意味の三つが揃い、新本堂を建立し、七堂伽藍の中堂を造るという企画が発願されました。
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古典会だより-春の七草 スズシロ 清白
『万葉集』巻一の冒頭には5世紀後半頃活躍した雄略天皇御製歌に
『籠(こ)もよ み籠持ち、掘串(ふくし)もよ、み掘串(ぶくし)持ち、この岳(おか)に 菜摘(なつ)ます児(こ)、家聞かな 告(の)らさね(籠も良い籠を持ち、土掘り道具の掘串も良いのを持って、この岡で若菜をお摘みの娘さん あなたのお家は何処(どこ)か聞きたい 言って下さい)』と若菜摘みが歌われています。春夏秋冬、四季の変化に恵まれた日本では、季節毎(ごと)の節目(ふしめ)を大切にして来ました。青龍の春(緑)、朱雀の夏(赤)、白虎の秋(白)、玄武の冬(黒→紫、玄は奥深く暗い意)、それぞれの季節の移動の時期が土用で、黄色です。土用は夏が特別扱いですが、本来は各季節にあります。お正月飾りやお祝いの五色の幕は、単に綺麗というだけでなく、季節の順当なめぐりと、無事への願いがこめられているのです。『古今和歌集』には「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手(ころもで)に雪はふりつつ」とあり、清少納言『枕草子』では「七日、雪まのわかなつみ、あをやかに、例はさしもさるもの目ちかからぬ所に、もてさわぎたるこそをかしけれ(七日、雪の間の若菜摘み、青やかな菜を、普段はそんな菜など気にもしないのに、大騒ぎして集めるのが面白い)」とあり、正月七日の若菜つみは、野遊(のあそ)びと食べる楽しみを兼ねたもので、七日に七草、七種類の菜を粥にして食べ、春の祝い、福寿の願いとして来ました。 続きを読む
古典会だより-多摩川-
拝島大師の南方約五〇〇メ-トルに多摩川が流れています。そもそも拝島大師の伽藍建物は多摩川の流れで形成された崖、というより「はけ」と呼ばれる土地に建っています。拝島という地名も、今から約五〇〇年前の戦国時代に多摩川の西南方の対岸の丘陵上にある滝山城から見た時に島に見えるからついたと言います。
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