拝島大師について

001

縁起

拝島大師のお大師さまは醍醐天皇延喜一二年(九一二)九月三日のお誕生、十二歳の延長元年(九二三)五月三日に比叡山に登り、学問修業に励み北嶺比叡山を代表する存在となり、南都東大寺・興福寺の学僧と仏教論争を繰り返し、誰でも仏に成れる法華経教義を確立しました。

また慈覚大師円仁将来の密教修法を発展させ、修法の霊験はとても人間の技とは思えず、人々は大師の正体は仏か菩薩だと思いましたが、お弟子の恵心僧都は如意輪観音とのことでした。そこで拝島大師奥の院多宝塔に如意輪観音を祀ります。

拝島大師の元三・慈恵大師の正体は如意輪観音ですので、大師の力を念じ、信仰することで皆さまの苦境はたちまち乗り越えることができるのです。朝に暮れに観世音を念じる。その一念はすべて我々の心、煩悩に汚れた迷いの心から起こる。一念一念はいつも我等の心を離れない。いつも観音さまを心に念じ、無事に暮らしたいと願います。お大師さまが観音さまの生まれ変わりであることが了解されます。

永観三年正月三日(九八五)の御入滅により、元三大師と称されます。大師は入滅後にその像が画像や彫刻に造られ、人々の信仰を生んできました。拝島大師の尊像は大師が生前ご自分で作られたもので、永く比叡山に伝わりましたが、元亀の織田信長の兵火で焼尽に帰すべきも、敬湛大僧都により救出され、諸国行脚の末拝島に来ました。

角大師・豆大師のお札があります。大師が修法すると魔が降ることを現すのが角大師で。厄除け、魔除けです。豆大師は観音さんが三十三身に変じて出現することにより、開運・諸願成就です。また、観音経の文句によって、「おみくじ」を作り、人々に正しい指針を示しました。

方角で丑と寅、坤の方角と言えば「鬼門の方角」、京都の鬼門の方角に比叡山があり、鬼門除けが比叡山延暦寺でした。戦国の世、北条氏の滝山城の鬼門の方角に拝島大師ができたのです。

四〇〇余年、拝島大師はみなさまの厄除け、魔除けに力になり、病気を治し、運勢を開き、迷いに「おみくじ」の指針を与えてまいりました。

本尊

拝島大師の参道東側に旧本堂が建っています。旧本堂は当山中興二十四世義順和尚が十年以上の歳月をかけて文政二年(一八一九)に再建したものです。

義順和尚は武芸の達人の武士でしたが、期するところがあって出家し、大師の御堂の再建を思い立ち、西方は大菩薩峠下の甲州・山梨県の北都留郡小菅村、北方は埼玉県比企郡都幾川村、南方は御殿峠を越えて橋本・相模原一帯、東方江戸市中まで有縁の人々に大師信仰を広めながら資金勧進に行脚しました。それで宝形造りの四間半四面の御堂が完成し落慶したのです。

それを契機として初縁日に多摩だるまを中心としただるま市がはじめるのですが、正月二日・三日という全国でもっとも早いだるま市として知られます。その後、文久三年(一八六三)当山二十五世義歓和尚の時に向拝浜縁高欄が造営されました。

さらに昭和二十六年(一九五一)当山二十九世宗賢の時に宝形造りを入母屋造りの瓦葺きになりましたが、現住職の平成三年に旧本堂は日本独特の曳屋技法により現在地に移動し、木刻み以来十二年の歳月をかけて平成六年に新本堂が完成したのです。

さて、旧本堂には古来大師御堂の脇侍に祀られていた大黒さまを祀ります。
大黒さんは正しくは大黒天、インドでマハーカーラと呼ばれ、密教経典の『仁王護国般若経』に見え、大黒天と漢訳し、大自在天すなわちシバ神の化身とされます。シバ神は破壊の神ですが、逆にインド人の信仰では万物創造の最高神となります。

仏教では色究竟天に住し第十地の菩薩が成仏してこの天になります。いずれにしても仏教の大黒天は護法神で、戦闘神また忿怒神であって、仏道修行を激励する激しい神でした。比叡山を修業の地とした天台宗祖最澄も大黒天の信仰を持ち、根本中堂の前に大黒堂を建てました。

日本では頭巾を被り、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえて、因幡白兎で知られる大国主命と一体とされ、七福神のひとりになります。拝島大師の二月三日の節分会に配る大黒さんのお札は一筆で蛇のように書き、養蚕の成功を祈願する招福開運のお札です。