元三大師のお話し(127)

元三・慈恵大師の伝記史料の研究

さて、前号に続き、以下に元三・慈恵大師の伝記史料を順次扱います。原文は漢文ですので読み下し文にし、語句の説明を行い、また当該箇所の史料研究を行います。

第一章 藤原斉信撰『慈慧大僧正伝』(続)
【1-14】摂政藤原朝臣兼家、横川恵心院建立(後半)
先ず慈覚大師の廟に礼し、次いで山王三聖の祠を拝すは、当にこの時なるべし。心中の誓願は、今月の内を過ぐる無く、不日(すみやか)の功を致さんとす。たとえ黄閣の重臣⑧に居ると雖も、願わくは白衣の弟子⑨と為るを許せ、子々孫々久しく帝王皇后の基を固め、生々世々永く大師遺弟の道を伝えん。即ち下山の後、帰第の間に、一百石の米、有る人これを与え、作料に喜充せり、俄かにその材を採る。歳月の裏、土木の功就き、六大観音⑩を刻造し、二天梵釈の仏像⑪を安置し、堂舎の供養先ず訖る。
[語句説明]
⑧黄閣の重臣…黄閣は宰相の庁事の門、転じて宰相のこと。⑨白衣の弟子…仏弟子になること、出家入道になる。⑩六大観音…六観音は六道の衆生をそれぞれ済度する観音、聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・不空羂索観音・如意輪観音。⑪二天梵釈の仏像…梵天と帝釈天。両天は護法神。
[史料研究]
師輔の三男の兼家が父師輔に倣って座主良源の信徒となり、横川に父の遺志を継いで恵心堂を建立する。永観元年(九八三)十一月二十七日、恵心院を供養するため、右大臣兼家公登攀して供養行事を行う。

【1-15】摂政藤原朝臣兼家、座主良源入滅事の予告
ここに僧正此界の縁忽ちに尽き、他方の別れたちまちに至り、古洞雲愁、永断の色は反らず、荒埏の泉に咽び、一泣の涙尽きる無し。大師門徒ほとんど陵替せんとし、臣の身は簪纓に在るも、心は仏法に染まり、願わくは僧正の遺跡を念ずること、宛も微臣の同胞の如くにして、而してまま花山法皇は宝暦新たに開し、臣は只微具これを瞻うの員にして、専ら近習の列にあらず、関退の心は、日夜相い促す。僧正は頻りに夢想を垂れ、談ずること生存の如く、これを諫めこれを誡むること、再に及び三に及ぶ。寤後に相い失い、覚えず涙下る、今年六月、聖上践祚し、便ち孱愚の身をもって、たちまちに摂録の任を授く。皇后儲君、納言宰相、非拠の栄、併して一家に在り。寔に知る、慈覚大師憐愍の徳、良源僧正夢想の徴のみを。門徒龍興は時また時なるや。
[史料研究]
「ここに僧正此界の縁忽ちに尽き、他方の別れたちまちに至り」とは、座主良源入滅の様子である。書き手は摂政藤原兼家である。

【1-16】永観二年西塔宝幢院露盤宝鐸黄金寄進事
永観二年(九八四)、西塔宝幢院は始めて木土の功を営む。ここに露盤宝鐸に須いるところの黄金は、其れ未だ三十二両足らざるところなり。和尚は素より資貯無く、唯仏の力を仰ぐのみ。然るあいだ、奥州刺史藤原為長書信を送りて曰わく、近く曽て賊の国分寺を闢け、金泥の大般若経を掠め、更に野外において経を焼き金を取らんとするに、寺主これを認めて追捕し、黄金三十二両を得たるなり。畢竟の文は畢空に帰す①と雖も、残るところの金は仏事に充てんと欲し、仍って行李を差して、敢てもってこれを進送せる者なり。造塔不足の金は、自ら此の数に叶う。千里の合信は、満山驚歎せり、便ち件の金をもって塔婆を荘厳せり。
[語句説明]
①畢竟の文は畢空に帰す…金泥の『大般若経』であるが、『大般若経』は畢竟皆空、畢空に帰すので、それで金だけが残った不思議である。
[史料研究]
永観二年(九八四)、座主良源は病床にあった。西塔宝幢院の塔建立には露盤宝鐸の黄金三十二両が不足していたところ、奥州国分寺から盗賊が金泥の大般若経を盗み焼いて手に入れた黄金三十二両を取り戻したので、仏事に使ってくれと送ってきた。仏の力によるは、黄金の数がピタリと合い、しかも比叡山と奥州の千里の距離、それらの合信に比叡山満山驚歎したという信仰の話である。

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