古典会だより 拝島大師参詣のしるべ(二)

大師さま 拝島大師におまつりしているお大師さまは慈恵大師、又は元三大師と称されます。大師とは、朝廷にとっての大先生という意味で、高僧に諡(おくりな)として与えられ、最初の大師号を贈られたのは、天台宗開祖伝教大師最澄です。その後、何人もの高僧に大師号が贈られましたが、お大師さんと呼ばれて拝まれている方は、天台宗の元三慈恵大師、真言宗の弘法大師だと言えましょう。
元三大師とは、言うなれば愛称でありまして、正式の諡は慈恵大師です。

ダルマ市の歴史 拝島大師初縁日に立つダルマ市は全国一早いダルマ市として有名ですが、一体いつ頃から、どのようにして始まったのでしょうか。
近世江戸時代の拝島は早くから市が開かれていた上に、日光道の宿場として、また多摩川、秋川沿いの交通の要所として、小さいながらも、八王子・青梅両地域経済圏から自立した経済の一拠点でした。しかも拝島大師旧本堂が造営された文化文政時代十八・九世紀には、拝島は織物・製糸業の町として在郷町の様相を呈するようになり、拝島の経済圏は飯能、青梅、扇町屋、所沢、府中、八王子、五日市という西武州の核地域を全部含むようになりました。なお、これらの範囲は当時における拝島大師信仰のそれとも重なることは、山門文殊楼に蔵されている「大般若経六百巻」の寄進者名(嘉永三年、一八五〇年)や「武州拝島山王宮・両大師両所万代奉額句合(嘉永六年)」などの諸記録からもうかがえます。
そして、そのような拝島大師参詣圏は、時として、例えば文政二年(一八一九)の旧本堂建立の勧進が武州多摩郡のみならず、入間郡や比企郡一帯、相模津久井郡、愛甲郡、高座郡、また西方は甲州大菩薩峠周辺にも及びました。こうした拝島大師信仰圏の拡大の中で注目すべきことは、幕末近く、横浜が開港し、ここから欧米各国へ絹、生糸の輸出が増大するに伴って、現国道十六号が横浜-相模原-八王子-拝島-箱根ヶ崎-豊岡-川越さらに上州、野州と結ぶ、いわゆる日本の絹の道(シルク=ロード)として登場してき、街道周辺農村に養蚕・製糸業ブームが到来してきた点です。
こうした中で、蚕の病気に効き目があるとして始まったのが、農家の副業による紙製ダルマでした。関東におけるその元祖は群馬高崎少林寺でしたが、またたく間に南下し、幕末には川越、所沢周辺に来ていました。立川市砂川村野昭継次家、秋川市小川の椚八郎家のそれぞれの伝承によれば、当多摩地域のダルマ(いわゆる多摩ダルマ)の製法は、所沢の三ヶ島から直接に入ったといいます。
ダルマは、達磨大師の座禅した姿に似せた張子の玩具で、大師が緋の衣を着ていたというので、顔面以外の部分を赤く塗っています。また、底を重くして、倒してもすぐ真直ぐに立つようになっており「七転び八起き」の言葉はダルマのことで、「不倒翁」の別称もあります。この「七転び八起き」から、特に開運・福ダルマと呼ばれ、縁起物となり、家内安全・商売繁盛・心願成就の願いをこめるようになりました。すなわち、農閑期に、農家の副業として作られた縁起物のダルマを、大勢の人が集まる大師の初縁日に売りに出した、これが拝島大師のダルマ市の起りだと言えましょう。
養蚕・製糸業と大師の結びつきは、ダルマ市の創始だけでなく、節分の時に本堂で配られる大黒さんのお札にも、観音経の経文を引きながら、養蚕増産の文句があることや、蚕守など養蚕関係の特別な守護札が造られたことなどからも、その緊密さをうかがい知ることができるでしょう。

おみくじ
◇日本のおみくじは、当山拝島大師におまつりする元三大師(慈恵大師)さまにはじまるといわれます。
◇元三大師さまのおみくじは、そのご本地の如意輪観音さまのおはからいとして尊ばれ、「観音籤(みくじ)」と呼ばれています。
◇全部で百番からできていて、「大吉」「吉」「小吉」「末吉」「末小吉」「凶」と吉凶をふりわけています。
◇元三大師のおみくじの特長は、ことにその解説で、観音さまの大慈大悲の御心にそった懇切な指針がのべられています。
◇解説は上から、絵・漢詩の言葉・経文の言葉の意味と運勢、いろいろな場合での指針。いろいろな指針は、一般的な暮らし方、望み事の成就の可否、病気、勝負、失せ物が出るか否か、住居移転・新築増築等の建物建築、旅行などの可否や時期の良悪(よしあし)、縁談の良悪、売買商売の良悪、生死の判断、職業就職の選択、子供の将来、教育方針など詳細にわたります。
◇おみくじを引いたら、吉凶だけで喜んだり悲しんだりせず、解説をじっくり読みましょう。