本誌『如意輪』連載の「元三大師のお話し」は第57号より、元三大師の属す慈覚大師法脈と異なる智証大師円珍について述べている。
八、九世紀の中国は唐という王朝で国際性豊かな文化は律令制度や均田制、租庸調制度、科挙や官僚制度など東アジア各国諸国の国造りの典型です。そのため日本では七世紀初頭の聖徳太子が小野妹子を隋に派遣したことに始まる遣隋使、遣唐使の一大国家事業を行った。ただ、八世紀の奈良時代の半ばを境として、もはや学ぶべきものは無い状況になり、使節派遣の熱意が急速に冷めます。かわって仏教の交流、特に伝教大師最澄の天台宗と弘法大師空海の真言宗という平安新仏教僧侶の入唐求法が盛んになりました。特に天台宗では慈覚大師円仁と智証大師円珍の中国南北の旅行が挙行されたのです。その成果は厖大なものですが、ここで当時の仏教の性格に関わる重要な課題を挙げて置きます。
北魏後期における仏教寺院伽藍の濫造と北魏仏教-『魏書』釈老志と『洛陽伽藍記』について-『魏書』釈老志の続きにいう、その後の北魏仏教の趨勢を挙げよう。煕平元年、詔して沙門恵生を遣わして西域に使して諸々経律を採らしむ。正光三年冬、京師に還る。得る所の経論は一百七十部、世に行わる。宣武帝が崩じて孝明帝が即位した。改元して煕平元年(五一六)、勅命により沙門恵生が西域に派遣された。入手した仏教経論は一七〇部、世に通行したという。ついで翌年の二年の記事には霊太后(23)の僧尼令が載る。二年春、霊太后は令して曰わく、
①年常の度僧は、限に依りて大州の応に百人なるべき者は、州郡は前十日に於いて三百人を解送せよ。中州は二百人、小州は一百人なり。州統・維那は官とともに精練簡取して数を充すに及ぶ。
②若し精行無ければ、濫採することを得ず。若し人に非ずを取るは、刺史は首と為し、違旨を以て論じ、太守・県令・綱僚は節級して連坐せしめ、統及び維那は五百里外の異州に移して僧と為せ。
③今より奴婢は悉く出家を聴さず。諸王及び親貴も、亦輒ち啓請を得ず。犯す者は、違旨を以て論ず。
④其れ僧尼は輒ち他人の奴婢を度する者、亦五百里外に移して僧と為せ。
⑤僧尼は多く親識及び他人の奴婢の子を養い、成人すれば私に度し弟子と為す。今よりこれを断ず。犯す有れば還俗し、被養者は本等に還さしむ。
⑥寺主の一人を容るを聴す、寺を出ること五百里、二人は千里なり。
⑦私度の僧は、皆三長の罪己に及ばざるに由り、多くの隠濫を容る。今より一人の私度有れば、皆違旨を以て論じ、隣長は首と為し、里・党は各々相い一等を減ず。
⑧県は十五人に満ち、郡は三十人、州は五十人に満つれば、官を免じ、僚吏は節級して連坐せしむ。
⑨私度の身は、州の下役に配当す。時に、法禁は寛褫にして、改粛する能わず。
まず、出家得度の僧侶定員の厳守、特に僧侶としての能力資格の厳守を①②で規定する。①は出家得度して僧侶になる人材の能力資格を厳重にするため、州統・維那は官とともに大州は三百人から百人、中州は二百人から五十人、小州は百人から二十人を選抜する(先の孝文帝時代の太和十六年令の度僧常準、参照)。因みに競争率は大州三倍、中州四倍、下州五倍である。大州が定数も多く、倍率も低く有利か。②仏道修行に精進しない者は選抜されない。もしその任に耐えないものを選抜したら、州刺史が主犯とされて違旨を以て論じ処罰される。郡太守・県令・綱僚は各々ランクを下げて連坐せしめる。州沙門統及び維那は五百里外の異州に移し一般僧と為せという。③④⑤⑥は奴婢の出家得度の禁止とその違反の処罰規定である。③諸王及び親貴という帝室貴族ら国家の有力者でも例外を認めない。因みに北魏均田法では奴婢にも給田する規定があることから考えると、農業生産労働力の確保を第一義としたことに関係するかも知れない。④僧尼が放良手続きを経ずに他人の奴婢を度した時には五百里外に移して僧と為す。⑤僧尼が親識及び他人の奴婢の子を養い、成人後に私度して弟子とする。今後はこれを禁断する。犯す僧尼は還俗し、弟子たる被養者は本の奴婢身分に戻す。⑥寺主が奴婢私度僧一人を容認すれば寺から五百里追放し、二人では千里追放する。
⑦⑧⑨は私度僧禁止に関する規定、⑦私度の僧が濫増するのは、従来、三長制の隣長・里長・党長が自分の管理責任ではないとされることにも原因がある。そこで今後、一人の私度僧の隠匿も、皆勅令違反として罪を問い、隣長を主犯とし、里・党は各々相い一等を減ず。北魏孝文帝以後の隣保制度である三長制は五家を隣、五隣二十五家を里、五里二十五隣一百二十五家を党とし、それぞれに隣長・里長・党長を置いた。戸口調査や徴税課役に事務担当を行う目的であるが、均田法施行に伴う農村公務に従った。煕平二年(五一七)の規定で三長が私度僧の防止や違反者の摘発に動員されていることが分かる。⑧県の私度僧が十五人、郡が三十人、州が五十人になれば、県令・郡太守・州刺史は免職となる。僚吏はランクに応じて連坐させる。⑨私度僧は州の下役の奴隷に配当される。
以上であるが、時に法禁がゆるんでいて、改革粛正することができなかったというが、むしろ王族や門閥貴族の力が強く、その奴婢を出家得度させて僧尼にしたり、私度僧を抱えたりすることを法網にかけることが困難であったというのが真意である。実はその社会風潮の一面が造仏造寺の流行である。『魏書』釈老志は洛陽における仏寺伽藍の建立を記述する。
粛宗煕平中、城内太社の西に於いて、永寧寺を起こす。霊太后は親しく百僚を率い、基を表し刹を立つ。仏図は九層、高さは四十余丈、其の諸々の費用は、計るに勝う可からず。景明寺の仏図は、亦其の亜なり。官と私の寺塔に至るに、其の数は甚だ衆し。
北魏孝明帝の煕平中(五一六、七年)に、城内太社すなわち社稷壇の西に永寧寺を起工した。霊太后は親しく百僚を率い、基礎石を置き塔の刹竿を立てた。仏塔は九層、高さは四十余丈、百メ-トルになる。諸費用は、計上不可能という。景明寺の仏図は、またその次である。官と私の寺院の塔になると、その数は甚だ多い。右に見える永寧寺については、北魏撫軍府司馬楊衒之の撰『洛陽伽藍記』巻一、城内(24)に次のように述べる。
永寧寺は、煕平元年に霊太后胡氏が建てた寺である。宮城正面の?闔門から南へ一里、御道西に在る。・・・境内には九重塔が一基あり、木を組み上げて建て、高さは九十丈、頂に更に金色の相輪が十丈、全部で地上千尺の高さ、都から百里離れたところからでも望見できた。当初、塔の基礎工事で地を掘り下げて地下水に達した時、黄金の仏像三十二体を得た。太后はこれを信心のしるしだとし、そこで塔の造営が並はずれたものとなったのである。刹竿の上に宝瓶があり、二十五斛の容積があった。宝瓶の下には承露金盤が十一重連なり、それらをぐるりと包んで金の鈴が垂らしてあった。さらに鉄の鎖四本で刹竿を塔の四角に繋ぎ留めてあったが、その鎖にも金の鈴が取りつけてあり、その鈴の大きさは石甕ほどもあった。塔は九重で、そのどの四角にも金の鈴が吊され、上下全部を会わせると百三十もあった。その塔は四角形で、一面ごとに三つの戸と六つの窓があり、戸はみな朱の漆塗りであった。その扉にはそれぞれ金の釘が五列に打ち付けられ、会わせて五千四百箇になった。またそれらには金環鋪首(金の嵩輪を通して金釘に吊す飾り金具)が付いていた。建築技術の粋を尽くし、造形美術の妙を極めたこの荘厳の精巧さは、この世のものとは思われず、彫りのある柱や金の鋪首は、見る人の目を驚かし心をゆさぶった。風のある秋の夜などは、金の鈴の音が響きあって、その鏗鏘たる調べは、十余里にまで聞こえた。
塔の北に仏殿が一つあり、作りは大極殿に似ていた。中に一丈八尺の金の仏像一体、等身大の金の仏像十体、真珠を鏤めた仏像三体、金糸で織り上げた仏像五体、玉の仏像二体があり、その精巧な作りは当時最高のものである。僧坊と楼閣は合わせて千余間、彫りのある梁に白い壁、彩色された扉と彫りのある櫺窓など、とても言葉では言い表せない。?や柏、椿や松などが軒端に生い茂り、竹叢や香草がきざはしの辺りを包んでいた。それで北魏人常景の碑文に「須弥山の宝殿も兜率天の浄土の宮も、これに勝るものなし」と賛えたのである。外国からもたらされた経典と仏像は、皆この寺に納められいた。寺の周囲の塀には短い椽を組んで、その上を瓦で覆い、当今の御所塀の様であった。東西南北にそれぞれ門が一つあり、南門は三層の楼門で、三本の階段通路があり、高さは地上二十丈、その作りは洛陽城宮殿南正門である端門と似ていた。雲の図が画かれ、それに仙人や神霊が色鮮やかな姿も画かれていた。彩色の扉には銭を並べたように飾り金具が連なり、目映い華麗さである。拱門には四力士と四獅子があり、金銀で飾った上に珠玉が鏤められており、その燦然たる荘厳はこの世で嘗て聞かないものであった。東門と西門もこれと同様であり、ただ南門と異なるのは楼閣が二層造りであることだけであった。北門だけは上に楼閣を設けない門であった。永寧寺の創建は煕平元年に霊太后の胡氏が建てた寺である。宮城の正面の?闔門から南へ一里、御道西に在る。境内には九重塔が一基あり、木を組み上げて建て、高さは九十丈、頂に更に金色の相輪が十丈、全部で地上千尺の高さ、都から百里離れたところからでも望見できた。当初、塔の基礎工事で地を掘り下げて地下水に達した時、黄金の仏像三十二体を得た。太后はこれを信心のしるしだとし、そこで塔の造営が並はずれたものとなった。相輪の刹竿の上に宝瓶があり、二十五斛の容積があった。宝瓶の下には露盤が十一重連なり、それらをぐるりと包んで金の鈴が垂らしてあった。さらに鉄の鎖四本で刹竿を塔の四角に繋ぎ留めてあったが、その鎖にも金の鈴が取りつけてあり、その鈴の大きさは石甕ほどもあった。塔は九重で、そのどの四角にも金の鈴が吊され、上下全部を会わせると百三十もあった。その塔は四角形で、一面ごとに三つの戸と六つの窓があり、戸はみな朱の漆塗りであった。その扉にはそれぞれ金の釘が五列に打ち付けられ、会わせて五千四百箇になった。またそれらには金環鋪首(金の輪を通して金釘に吊す飾り金具)が付いていた。建築技術の粋を尽くし、造形美術の妙を極めたこの荘厳の精巧さは、この世のものとは思われず、彫りのある柱や金の鋪首は、見る人の目を驚かし心をゆさぶった。風のある秋の夜などは、金の鈴の音が響きあって、その鏗鏘たる調べは、十余里にまで聞こえた。
洛陽城内に四〇丈、一〇〇メ-トルの高さの九重塔が聳える永寧寺は霊太后の創建である。霊太后胡氏、孝文帝の次代皇帝の世宗宣武帝の皇后で粛宗の母后、粛宗が幼年で帝位に即くと、皇太后として摂政した。高祖孝文帝の母の文明皇太后馮氏の先例に倣った。その姑が熱心な仏教信者であったことに感化を受けて、やはり深く仏教に帰依した。ただ、先代の文明皇太后の事績を強く意識し、その仏教政策は文明皇太后の二番煎じ的な部分もあるが、仏教寺院の伽藍建築については豪華極まる壮大な建築を志向し、文明皇太后の諫めとは全く相反するものになった。文明皇太后は自らの名の政令公布は多くない。霊太后は先に挙げた『魏書』釈老志の煕平二年春に「霊太后は令して曰わく」というような僧尼令を孝明帝に代わって公布した。このばあいでも文明皇太后の時には、単に「詔に曰わく」とあったはずである。霊太后は権力志向が強く、我が子の孝明帝を毒殺して幼主を次々と立て臨朝した。したがって、霊太后は文明皇太后というより、唐、則天武后を彷彿とさせる女性権力者であった。因みに両名とも、龍門に壮大な仏像石窟を開削したり、帝都を洛陽中心にして一大仏教都市を建設し、仏教政治を行ったことという共通点が改めて注目されるのである。
永寧寺について、『洛陽伽藍記』巻一の冒頭部の中略部に寺の周囲について次のような説明をする。その寺の東に太尉府があり、西は永康里に対し、南は昭玄曹と界し、北は御史台と隣あっていた。?闔門の前の御道の東に左衛府が有り、府の南に司徒府があった。司徒府の南には国子学堂があり、内には孔子の像が有り、顔淵が仁を問い子路が政を問うのが側に有った。国子学の南には宗正寺が有り、寺の南には太廟が有った。廟の南に護軍府が有る。府の南は衣冠里が有る。他方、御道に西に右衛府が有り、府の南には太尉府が有る。府の南は将作曹が有り、曹の南には九級府が有り、府の南は太社が有る。社の南には凌陰里が有り、即ち四朝の時に氷を蔵した処(氷室)である。
さて、以上の永寧寺界隈の地理案内から、永寧寺が東に太尉府、西は永康里、南は昭玄曹、北は御史台と隣あう四至の位置にあり、宮城?闔門の前の御道周辺という東京で言えば皇居前の丸の内地区という第一等の目貫の場所にある。そして、その太尉府・昭玄曹・御史台の他、左衛府、司徒府、国子学堂、宗正寺、太廟、護軍府、右衛府、太尉府、将作曹、九級府、太社という祭祀の建物や文武諸官庁が軒を連ねる官庁街区域であった。
永寧寺が洛陽城内中心の最も枢要な地区に所在していたことが分かる。そこに高さ九〇丈の九層の大塔を聳えさせ、その偉容は北魏第一の官寺の名に恥じない大伽藍であった。それほど度はずれ壮大な寺院建築を行えば、批判文句が出てくるのは当然である。しかも、北魏国家では文明太后や高祖孝文帝、世宗宣武帝がことあるごとに伽藍建設の制限規制を詔として公布してきた伝統がある。再び、『魏書』釈老志の前掲部の続きを見よう。
神亀元年(五一八)冬、司空公・尚書令・任城王澄は奏して曰う。
仰ぎ惟うに高祖は鼎を嵩?に定め、世の悠遠を卜す。慮は終始を括り、制は天人を洽ねく、物を造り符を開き、これを万葉に垂らす。故に都城の制に云う、「城内には唯一永寧寺の地のみ擬し、郭内には唯尼寺一所のみ擬し、余は悉く城郭の外ならしめよ」と。永く此の制に遵じ、敢えて矩を逾えること無からしむ。景明の初に逮び、微かに犯禁有り。故に世宗は仰いで先志を修め、爰に明旨を発して、城内は浮図・僧尼の寺舎を造立せず、亦其の奇覬を絶たんと欲す。文武(孝文帝と宣武帝)の二帝は、豈に仏法を愛さざらんや。蓋し道俗の殊帰するを以て、理として相い乱る無き故なり。但、俗は虚声に眩い、僧は厚潤を貪り、顕禁有りと雖も、猶自ら冒営するがごとし。
正始三年(五〇六)に至り、沙門統恵深は仏教伽藍の華美規格を超えることを戒めた発言をしている。仏教が隆盛になれば堂塔伽藍から仏像の制作など盛大な事業を興す。そのために皇帝や貴族達はその建設費用を国費から捻出しようとする。政治混乱が起こってくる。以下次号