七堂伽藍という言葉があります。寺として具備すべき七種の堂宇のこと、普通は塔・金堂(本堂)・講堂・鐘楼・経蔵・僧房(庫裡)・食堂の七堂、天台宗では中堂・講堂・戒壇院・文殊楼・法華堂・常行堂・双輪?(多宝塔)の七堂塔、禅宗では法堂・仏殿・山門(三門)・僧堂(方丈)・庫裡(食堂)・西浄(東司)・浴室の七堂です。各建物の機能や目的から、いずれも寺院の仏教活動に必要不可欠な建物です。
拝島大師では御信徒各位の御信心の賜で、七堂伽藍が整備されて来ました。新本堂元三大師中堂(平成六年落慶)、講堂(客殿、昭和四二年)、文殊楼(昭和四八年)、鐘楼(昭和五三年)、多宝塔(昭和五八年)、大黒堂(旧本堂、文政二年)、八角円堂弁天堂(平成一二年)、南大門(平成八年)、西大門(平成一一年)と続き、残るは経蔵堂となりました。
経蔵堂とは仏教経典を収蔵する建物、楼造のものは経楼と呼びます。伽藍の中では、儀式に便利なように、講堂の近くに経蔵を建て、鐘楼と対称的に配置されました。法隆寺では鐘楼が東に、経蔵が西にありますが、逆に経蔵が東にあった例もあり、一定してはいません。法隆寺経蔵(奈良時代)は東を向き、正面三間、側面二間、楼造り、屋根は切り妻造、内部は板敷き、経架は失われています。唐招提寺鼓楼は元経蔵で法隆寺式ですが入母屋造屋根です。奈良天平時期創建東大寺経蔵は古図によれば三間四面、妻入り、一階柱外に袴腰を付けていました。平泉中尊寺の大長寿院経蔵(平安後期)は方三間、宝形造、内部に古い経架を存します。醍醐寺山上の経蔵(鎌倉初)は三間に二間、寄せ棟造、前面庇付き、大仏様式、内部に経室もありましたが、昭和一四年に焼失。中世室町時期には禅宗寺院に経蔵が盛んに造られました。岐阜県安国寺経蔵は応永一四年(一四〇七)建立、方一間、裳層付き、入母屋造、禅宗様、内部に八角輪蔵を備える現存最古の事例。唐招提寺経蔵、東大寺三棟の経蔵、高野山金剛三昧院経蔵等は校倉造、現存しませんが宇治平等院経蔵・法金剛院経蔵(八角堂)は四面回廊を備えた立派なものでした。平安初、比叡山を開いた天台宗祖伝教大師最澄上人は経典収集に心血を注ぎ、東大寺、大安寺、興福寺、法隆寺等の奈良大寺所蔵天台経典を写経し、また、入唐収集の経典類のリストは、「台州録」「越州録」と呼びます。宗祖は更に、同じく遣唐使に参加し、唐都長安に訪れて多くの真言密教経典を将来した弘法大師空海から数多の文献を借用し、それを写経したことは有名です。後に宗祖の弟子慈覚大師円仁が承和の遣唐使と共に入唐して収集した経典は前唐院に所蔵されました。
仏教の経典に対する日本人の信仰は格別なものがあり、経典を架蔵する輪蔵をぐるりと一回転させれば、そこの経典は全部読んだことになる。経典の功徳は絶大、亡くなった人の追善供養に最も善いとされました。
拝島大師ではかかる伝統的な経蔵に近代的図書館機能を加味した一大研究施設を構想し、仏法興隆、文化発展、社会安定、国際平和、また人類福祉増進に、仏教経典の有難い御利益が有りますように、経蔵堂の建立に何とぞ御理解を賜り、御支援を願う次第であります。