本年の干支は午歳、うまどしですので動物の馬という漢字を説明します。干支の午は角が出れば牛だが、午には角が出ないと覚えてください。さて、漢字の馬という字はいかにも馬の形を現わしています。字形は馬の頭とその後に鬣(たてがみ)があり、大きなお尻があって、下に四足が駆けています。一体、馬は体巨大、四肢強健、鬣と蹄(ひずめ)とあり、人を乗せ物を運ぶに古来必要な獣です。野生の馬が家畜になったのは今から五〇〇〇年くらい前とされ、中国でも漢字が登場してきた殷時代(前一四〇〇から前一〇〇〇年ころ)にはすでに馬は中国人に知られていました。なお、日本人が馬を知ったのは相当に後れて四、五世紀のことです。日本語の「うま」は馬の漢字音の「ま」に接頭語「う」が冠したもので、「うめ(梅)」「うみ(海)」と同じです。「ま」は母音変化で「め」ともなります。罵るとき、奴め、此奴(こいつ)めとなります。また、高さ六尺(一・八〇メ-トル)を馬といい、古来諸侯の乗り物でした。馬八尺以上を龍といい、天子(王)の乗り物でした。五尺以上の小型は駒といいます。さて、インドでは馬は牛、獅子(ライオン)、象(ゾウ)とともに聖なる動物で四獣といいます。西アジアやエジプト、さらにギリシャ・ロ-マでは優れた馬は空に上り、時に翼が生えて天馬と呼び、これはインドにも紀元前に伝わりました。馬は乗馬に使われますが、何頭かの馬に引かせた馬の車を馬車と呼び、これも古今東西で古い歴史があります。特に戦車に使う馬車は古代オリエントでは一般的でしたが、古代インドや古代中国でも同様で、中国では殷から周時代、天子の馬車は六頭立て、諸侯は四頭ないし二頭立てと身分も高さの印となりました。孔子は弟子の顔回が死んだ時、その父親が孔子の馬車を貸してくれと頼んだが、貸さなかった話が有名です。孔子は自分の乗る馬車が無くなると体面が保てないというのです。周王朝の時代の各地の王侯の墓地から馬車が出土することが知られます。秦始皇帝の墓地からも銅馬車の模型が出土しました。
十九世紀のアメリカでも馬車が多く使われ、幌馬車の駅馬車は近代交通の一頁です。騎兵隊は馬車を伴い西部開拓に向かい、インディアンと激しい戦いをし、馬車を倒して砦にしました。日本でも明治文明開花に横浜馬車道や東京に馬車駅が作られました。
乗馬の話に戻りましょう。乗馬では騎馬という用語がよく知られます。その場合、馬は裸馬ではなく、いろいろな用具を付けます。乗馬する人が座り心地の良いように、お尻が痛くないように鞍があります。皮革、編み物または布帛で馬背をまき、騎乗者の席としたもで、鞍という漢字も革へんに安楽の安と書きます。鞍のはじめは、古代オリエントのバビロニアではよくなめした革とか羊毛を固めたもので形を作り、毛氈の布を鞍敷としたものが早期で、中国も同様とされます。やがて皮革または木製の鞍橋を作り、これを鞍敷の上に載せ、左右にあおりを垂れ、さらに鞍橋の上に鞍覆をかけるといった複雑なものに発展しました。西アジアのササン朝ペルシャや中国の隋唐王朝では螺鈿(らでん)や瑠璃ガラスを嵌め込んだ豪華な鞍が出現しました。馬の渡来が後れた朝鮮や日本はいずれも同一の形で中国から伝来したものと考えられますが、古墳時代の応神天皇陪陵から出土した金銅透彫の鞍橋金具の鞍は日本の古墳から出土した最古のものです。これは平安時代での和鞍と唐鞍との区別の和鞍の系譜に繋がります。飾りを多くつける唐鞍は専ら儀礼用に使われたと言え、それに対して和鞍は武士が戦陣用に使いました。
乗馬の際、両足がかかる個所を鐙といい、ヨ-ロッパではロ-マ時代、東洋では漢代にはじまりました。意外なことに中央アジアや北アジアの遊牧民族の間には無かったと考えられています。逆に言えばロ-マや漢は、鐙を持たない遊牧民族と騎馬戦の戦争をして勝利するために開発したのが鐙だということになります。朝鮮や日本は乗馬の初めから鐙がありました。ただ中国の鐙や朝鮮の鐙は輪鐙と言い、単に足を懸けるだけの革製やひも製でしたが、日本では早くから鉄製の輪鐙から壺鐙に発展しており乗馬技術の進化を窺わせます。鉄製の壺鐙は沓さきの形になり、古墳時代末期の九州宮地岳出土のように金銅製の豪華な鐙も登場しました。騎馬戦盛んな平安末期の源平時代から鎌倉時代には世界でも類例のないほど多様な鐙が発達し、足の乗る部分の長い鐙が流行しました。
轡(くつわ)は馬の口にはませ、その「はみ」の両端につけた手綱をもって馬を制するに使い、馬具としては最初に出現したようです。「はみ」の両端、手綱のからむ引手の金具と重なり、「おもがい」を受ける金具を大形のものとし、これを鏡板として、それにいりいろな装飾を施すのを常としますが、日本では奈良時代にそれがなぜかなくなりました。