慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その2-

承和五年(八三八)七月三日、丑の時(午前二時ころ)、潮が生じた。路を知る船が、前を先導して掘港庭(大運河の町)に赴いた。巳の時(午前一〇時ころ)、白潮口に到った。逆流がはげしくほとばしる。大唐の人が三人と日本から来た水手船頭たちが、船を曳き流れを横切り、岸に到って纜(ともづな)を結び、しばらく潮の生じるのを待つ。

ここで遣唐使第四船が北方に漂着した聞いた。午の時(正午一二時)、至近距離の海陵県白潮鎮の管内守捉軍(守備隊)中の村に到った。ここで先に海上で別れた録事山代氏益ら三〇余人が迎えに出た。再会ができたので、皆悦び集まり、涙を流して懐旧の思いであった。ここで一同一緒になった。この間に小船で国信物(1)を運び、ならびに海水などでびしょびしょに濡れた官有物や私物を洗い乾かした。唐岸に到着以来数日が経っているが、未だ州県地方官の慰労の出迎えはない。各自が便りを得て宿所を探した。辛苦は少なくはない(2)。請益法師と留学僧(3)とは同じ宿に一処に停宿した。東梁豊村(4)より去ること一八里(九キロメ-トル)、延梅村(5)があり、村裏に寺があり、国清寺(6)と寺名がある。遣唐大使らは漂着の労を憩うためにここに宿住した。
七月九日、海陵鎮(7)大使劉勉が来り遣唐使らを慰問し、酒餅を贈り、兼ねて音声を設けた(8)。あい従う官健(9)・親事(10)は八人。大使劉勉は紫の朝服を着ている。当村押官(11)もまた同じく紫衣を着ている。巡検の手続きの事が畢ると、県家(12)に帰った。
七月一二日、東梁豊村より水路で随身物を運び、寺裏に置いた。同日午後、唐側の迎船の催促のために通事大宅年雄(13)、射手大宅宮継らを派遣し、水路より県家に向かわせた。申の時(午後四時ころ)、雷が鳴ってきたが、東梁豊村に往った留学僧はいまだ到着していない。
七月一三日、大いに熱い。未の時(午後二時ころ)、雷が鳴り、初めて漂着して以来、蚊や虻が甚だ多い。その大きさは蠅のようだ。夜になると人びとを悩まし、五月蠅い。辛苦は極りない。申の時になって、東梁豊村からこちらに向かった留学僧が到着したが疫痢に罹っている。
七月一四日、辰の時(午前八時ころ)、州県の迎船が来ないので遣唐大使一人、判官二人、録事一人、知乗船事一人、史生一人、射手・水手など総数三〇人水路で県家に向けて去った。その時、揚州開元寺(14)の僧元昱が来て、筆言(筆談)で情を通じた。頗る文章を識る。まま日本国の風を知るので僧元昱にも土物(みやげ)を贈った。彼の僧からは桃菓が贈られた。寺の近くにその院が有った。しばらく話して帰っていった。暮れ際、雷が鳴った。大雨が降った。驚き慌てること甚しい。

【研究】(1)国信物は国信の物、国信とは国の便り、すなわち日本国から唐帝国へ国家間の儀礼物である。因みに日本国から唐帝国へ贈る物は貢ぎ物ではない。(2)各自が便りを得て宿所を探した。辛苦は少なくはないとは、当然遣唐使以下の随行者や円仁らの宿泊費用は有料である。無料宿泊接待があったわけではない。(3)円仁は日本国が必要とする仏教教義儀礼を将来するために正式に派遣した請益法師であり、それに随伴して勉強修行する円載らの単なる留学僧とは区別される。(4)東梁豊村は揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村、ただしこの村は日本のムラとはことなり、行政区画ではなく、単なる地名である。村は邨とも書くように、人家が数戸たたずむ所である。(5)延梅村の地点は不明。
(6)国清寺は天台山国清寺、すなわち陳隋国師の天台大師智顗禅師が本拠にした浙江台州の寺と同名である。(7)海陵鎮は海陵県白潮鎮の誤記であろう。(8)音声を設けたとは歌舞音曲の芸事で客を娯楽させること。(9)官健は健児の別名であり、この唐の兵制度は奈良時代から平安時代初期に日本でも施行された。(10)親事とは近侍の者の意であるが、円仁が入唐した時代の唐後期では官健とともに節度使配下の直属部将である。(11)当村押官も節度使配下の直属部将、村という地点に配置された守備兵である。(12)県家は県の役所のこと。県公署。司馬光『資治通鑑』巻二四九、唐宣宗大中八年(八五四)の条には、「唐人は諸道節度使及び観察使を謂いて使家となし、諸州は州家となし、諸県は県家となす」という。いずれにしても唐後期の節度使藩鎮跋扈の時代の言い方である。天下が乱れ、唐皇帝の権威が失墜して、地方が分裂割拠の状態になったようすを示すものである。(13)通事大宅年雄は帰朝後累進して従五位に上る。(14)揚州開元寺は鑑真和上縁の寺。開元寺は唐玄宗開元二六年(七三八)に天下の州府に一寺の建立を勅額で定めた寺院。わが諸国の国分寺の先例の一である。    以下次号