仏世界の須弥山〔しゅみせん)の中腹にある四天王天の主が四天王です。東方は持国天、南方は増長天、西方は広目天、北方は多聞天です。上は帝釈天に仕え、下は天・龍・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅迦(まごらが)の天龍八部衆を支配して、仏法帰依の衆生を守護します。
北方多聞天は別に毘沙門天とよばれ、多く聞く意味の梵語ヴァイスラヴァニャの音写です。日本では毘沙門天は四天王の中で特に信仰が厚かった。聖徳太子は蘇我馬子の崇仏派に加わり、排仏派の物部守屋と闘った時、四天王の像を髪に入れて戦勝を祈願したとありますが、実際には毘沙門天の尊像です。忿怒の相の武神形で、甲冑を着け、片手に宝塔を捧げ、片手に鉾、または宝棒を持ちます。北方世界を守護する神ですが、北方の外敵を防御する意味にもなります。福岡市から北九州市の玄海沿海諸寺では毘沙門天が多く、特に築紫大宰府観世音寺に名作があります。京都北には鞍馬山があり、ここに丈六の大毘沙門天が京都の町を守護しています。東北各県も岩手県や秋田山形、宮城・福島会津など各地に重要文化財指定の名品が多くあります。江戸・東京はその北部の谷中天王寺の本尊が毘沙門天です。 毘沙門天は武神ですから武将の守護神になり、戦国の世、北国の英雄上杉謙信は旗印に墨黒々と毘沙門天の一字「毘」を大書して敵を驚かせました。武田信玄との一騎打ちを中心とした川中島合戦は戦国戦闘の名場面です。
さて伝教大師最澄の帰国に関わる新宮千年屋にも毘沙門天が祀られました。当初は朝鮮半島や中国大陸からの外敵進入に備えた北の防りでしたが、やがて一家を守護し家に福徳を将来する福神となりました。これが近世太平の世となり、大坂・京都・江戸三都が商業発展で大にぎわいになった時、毘沙門天は戎・大黒・毘沙門・弁天・布袋・福禄寿・寿老人と並べて七福神となりました。七福神は大黒・毘沙門・弁天がインドの神、布袋(実は弥勒菩薩)・福禄寿・寿老人は中国発生、そして戎は日本成立という天竺・唐・和国三国合作で、要するに江戸庶民は当時の世界中の有力な神を福の神として商売繁昌のために祀ったのです。拝島大師も旧本堂に大黒天らを祀り、八角円堂に弁天・毘沙門天を祀ります。