大黒さん

拝島大師の参道東側に旧本堂が建っています。旧本堂は当山中興二十四世義順和尚が十年以上の歳月をかけて文政二年に(一八一九)再建したものです。

義順和尚は武芸の達人の武士でしたが、期するところがあって出家し、大師の御堂の再建を思い立ち、西方は大菩薩峠下の甲州・山梨県の北都留郡小菅村、北方は埼玉県比企郡都幾川村、南方は御殿峠を越えて橋本・相模原一帯、東方江戸市中まで有縁の人々に大師信仰を広めながら資金勧進の行脚をしました。

それで宝形造りの四間半四面の御堂が完成し落慶したのです。それを契機として初縁日に多摩だるまを中心としただるま市がはじまるのですが、正月二日・三日という全国でもっとも早いだるま市として知られます。その後、文久三年(一八六三)当山二十五世義歓和尚の時に向拝浜縁高欄が造営されました。さらに昭和二十六年(一九五一)二十九世宗賢の時に宝形造りが入母屋造瓦葺きになりましたが、平成三年に旧本堂は日本独特の曳屋技法により現在地に移動し、十二年の歳月をかけて平成六年に新本堂が完成したのです。 さて、旧本堂には古来大師御堂の脇侍に祀られていた大黒さまを祀ります。

大黒さんは正しくは大黒天、インドでマハ-カ-ラと呼ばれ、密教経典の『仁王護国般若経』に見え、大黒天と漢訳し、大自在天すなわちシバ神の化身とされます。シバ神は破壊の神ですが、逆にインド人の信仰では万物創造の最高神となります。仏教では色究竟天に住し第十地の菩薩が成仏してこの天になります。いずれにしても仏教の大黒天は護法神で、戦闘神また忿怒神であって、仏道修行を激励する激しい神でした。比叡山を修業の地とした天台宗祖最澄も大黒天の信仰を持ち、根本中堂の前に大黒堂を建てました。

日本では頭巾を被り、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえて、因幡白兎で知られる大国主命と一体とされ、七福神のひとりになります。拝島大師の二月三日の節分会に配る大黒さんのお札は一筆で蛇のように書き、養蚕の成功を祈願する招福開運のお札です。