承和五年(八三八)七月十七日、午の時(正午)、射手大宅宮継が押官ら十余人と、如皐鎮家①から三十余の草船②を率いて来たので、大使の様子を聞くと、大使は昨日鎮家に到ったという。申の時(午後十六時ころ)、春知乗(知乗船事の春道宿祢永蔵)・山録事(録事山代氏益)らが射手とともに東梁豊村③から来て寺(開元寺)の内に宿泊した。
七月十八日早朝、公私の財物を舫船④に運んだ。巳の時(午前十時ころ)、録事以下、水手以上のものは、水路より揚州に向かった。水牛二頭で四十余の舫船を牽引し、あるいは三艘を一船に編むものもある。ともづなで船と船とを繋いでいる⑤。船団の前後は声も聞き難く、相互に喚ぶこと甚だしい。船の速度はやや疾い。掘溝の寛さ(幅)は二丈あまり、五、六メ-トルである。真っ直ぐの水路で曲りがない。これは隋の煬帝が作られたものだ。すなわち大運河である。雨が降ってきた。進行が困難辛苦である。流行されること三十余里、十五キロメ-トル、申の時、郭補村(郭舗村)に到る。ここで宿泊することになった。夜になると蚊が多く、刺されると痛いこと針で刺されるようだ。ほんとうに艱難辛苦の極みである。夜通し太鼓を打っている。その国の風では、防援の人⑥があって、官物を護らんがために、夜になると鼓を打つという。
十九日、寅の時(午前四時ころ)、水牛が前を牽引して出発した。暗雲はあるが雨は降らない。卯の時(午前六時ころ)、鶏の鳴き声を聞いた。始めて呉竹の林、および生け栗、小角豆⑦などがある。巳の時、遣唐大使の公文書である牒が到来した。牒状にいう、「その漂流損傷した舶は便に随いて由るところの守捉司において検校せしめ、その守舶の水手らは数によって上向せしめ、欠留させないように」という。ただちに准船師の矢侯糸丸⑧らをして船を泊まるところに遣わした。午の時、臨河倉舗⑨に到った。この夜は夜通し進行した。
【語句説明】
①如皐鎮家、現在の通州市如皐県城。唐末では如皐鎮の鎮将の部署があった。
②草船、草葺き屋根を施した小船。江淮地方の大運河から東南海浜の塩業地帯に多い。蓬船というのと同じか。
③東梁豊村は揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村という。ただし、これを確認する他の資料はない。
④舫船は併船ともいい、船を二艘横に並び接合した船、江淮地方の大運河付近の水郷地帯に多い。
⑤船と船とを繋ぐは、列車のように何船も綱で連結する。水牛二頭で四十余の舫船を牽引しとあるので、水牛は大運河を泳いで船を牽引するようにも見えるが、実際には大運河の川底が浅く水牛の足が地底について歩いて牽引したかも知れない。舫船が底の浅い箱船で転覆を免れるため二艘横に連結したようである。今日大運河や上海の黄浦江、蘇州河でよく見る風景である。日本でも東京の隅田川や外堀などの水路にまま見られるダルマ船を彷彿させる。⑥防援の人、盗賊から官物を防御する兵隊である。大運河は江南から国都の長安や洛陽に稲米や絹・生糸など租税徴収物品を漕運運送する。これを途中で襲って奪う盗賊が出没する。大運河は最も盗賊の多い個所だ。『水滸伝』の百八人も大運河を目指す盗賊である。なお、盗は日本では単なる盗みであるが、中国では官憲や軍隊に対抗するような私兵集団である。⑦呉竹の林、および生粟、小角豆は始めてとあるので慈覚大師円仁にとっては中国唐ではじめて見るもの、つまり日本にはないものをいうのであろう。呉竹はくれたけと呼ばれる淡竹である。正倉院宝物関係の「東大寺献物帳」には呉竹笙一口、呉竹竽一口が見える。生粟、小角豆はやや特定が難しい。大角豆のささげに対して、小角豆は小ささげという説もある。小豆ではない。⑧矢侯糸丸、矢侯は資料によっては別に矢候、楊胡、陽侯、陽胡と作る。本『巡礼行記』でも円仁は別の個所で楊隻糸丸と書いている。楊隻は楊侯の訛りという。直・史または忌寸姓であって、『日本書紀』推古天皇十年や文武天皇四年の各条に見える。『新撰姓氏録』左京諸蕃・和泉諸蕃には漢族の出で、隋煬帝の後裔といったとするものもある。⑨臨河倉舗は大運河の要地に臨む個所に設けられた倉庫と商税徴収の役所であろう。
【研究】 慈覚大師円仁が遣唐使船で揚州付近の海浜に漂着した。節度使が地方に割拠した唐末、節度使配下の武将が地方を警備している。草船や舫船など大運河地帯の船の各種、呉竹林、生粟、小角豆など珍しい作物、特に興味深いのは大運河を四十艘の舫船を連結した船団を水牛二頭が牽引するという個所である。重連SL機関車数十の車両が続いているような風景である。また、大運河襲撃の盗賊を警戒し夜通し太鼓が打たれる。これも治安の悪い混乱期の中国の実情である。
以下次号