八月二十五日、早朝、綱維の請いが有り、そこで開元寺の庫裡に行って粥を喫した。朝粥を食した①のである。午の時(正午十二時)に至るころ、三論留学僧常暁師②が慰問に来て談話した。開元寺側が食事の供物を提供してくれたので、円仁らは常暁師と斎食した。常暁師は巡回して宿舎の館に帰った。
円仁は従者の惟正を差遣して同じ遣唐使同行の真言請益僧円行の消息を問訊させたところ、その返事の報告の中で円仁への慰問の言葉があった。兼ねて第四船の船頭判官菅原善主および吉備掾・讃岐掾③らの慰問が同時にあった。報告によれば、第四船は渡海後漂着し、高波のため漂流していたが、さらに高瀬のため浮き戻ることが不可能になったので、水手らは小船に乗じ船上に往き、未だ中途に至らぬ内に潮波が逆流したので、船上に行くことできず、どこに行ったか不明、ただ射手一人だけが潮に入って溺れ流されている内に、白水郎があり、これに救助された。この間、泥水との格闘で身体が水ぶくれに腫れ上がり落命したもの五名に及んだ。これはすでに前号『如意輪』本欄で書いたところである。ところが前号『如意輪』本欄で書き残したところがある。船師佐伯金成の消息である。まず、前号『如意輪』本欄八月十日条に船師佐伯金成は疫痢を患って数日を経たとあった。次に同十六日、辰の時、円仁・円載の二人の僧は金成に無常の咒願、すなわち『大般涅槃経』の「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(諸の行は常は無い、これが生滅の法である。生滅が滅しおわって、寂かに滅するのを楽とする)」の偈である。ただ、この時未だ金成は命が終わっていない。でも臨終間際、唐側の遣唐使担当官は金成の所持品の物を調べた。翌日、十七日夜に入り丑の時(午前二時)病者金成は死亡した。
十八日。早朝、揚州の行政責任者である節度使李徳裕の押官らが、金成の死亡を確認に来て、日本側遣唐使が決裁をし、金成の所持品を金成の従者に与え、それで棺を買って埋葬ができた。以上の金成最後については前号『如意輪』が正月号故に割愛したのでここで補うことにした。
【語句説明】
①粥を喫した・・・茶を喫した(喫茶)と同じ用法。粥食は僧侶の常食、正しい食事であり、中でも朝食が重んじられた。仏道修行の正食事であるので喫茶の喫を使った。
②三論留学僧常暁師・・・小野勝年氏の考証によれば、常暁は奈良元興寺僧であった。元興寺は三論宗で天台宗祖最澄との繋がりもある。なお、元興寺は飛鳥法興寺を奈良平城京に移転したものである。三論宗は中論・百論・十二門論の三論を専攻する論宗で南都六宗の一、法相宗に次ぐ勢力を持ち、大安寺・法隆寺・元興寺・東大寺で研究された。常暁は三綱の一の律師で円仁は師を付けて尊敬している。当時未だ三論宗研究のために入唐していることが知られる。ただ、常暁は三論宗の学匠であるだけでなく、真言密教にも通じ、入唐して三十年の長期留学を希望したが、許可されず、やむなく揚州広陵館に留まった。常暁師は巡看護して宿舎の館に帰ったとは広陵館に帰ったと小野勝年氏は考証している。常暁は帰国後、山城国(京都府)宇治法琳寺に居たが、斉衡年間(八五四~五七)、天下大旱に宮中神仙苑に大元帥法を修して雨を降らしたと記録される。
③円行・・・元興寺で仏門に入ったが、一六歳の時東大寺で華厳宗の年分枠で得度し、翌年同寺で具足戒を受けた。後二十五歳の時真言宗空海から両部大法を受けた。承和の遣唐使船で入唐したが、第三船乗船の真済・真然らが難破のため渡航不能となったので、円行の渡海入唐、承和六年十二月帰国に際し、将来の経典六十九部百三十三巻という。その他、仏舎利・密具・仏像曼陀羅多数を持ち帰った。勅命により山城霊厳寺に居住したが、後に播州(兵庫県)大山寺を開基して、真言宗を広めた。
【研究】唐の対外外交都市揚州に遣唐使や請益・留学の両僧らが到着した時の入国諸手続きが理解される。まず、同行した各宗僧侶とは目的地が異なるので別離の情を通わせる。どうぞご無事でとなる。次に唐側でまず接待してくれる開元寺内百人の僧の会食、費用は日本側持ちである。今日でも日中学術交流などの場で再現している風景である。 以下次号