お釈迦さまを仏像の話しとして取り上げていますが、ここで仏像について一般に誤解があるようなので、正しい考え方を述べておきましょう。その誤解は仏像は仏教徒の信仰の対象だ、仏教徒は仏像を拝んでいる、礼拝しているということに関係するものです。信仰の対象は人間によく似た仏さまですから偶像だといい、またこれまでも本講座で種々の仏像を取り上げてきましたから仏教は多神教という主張もあります。でもそういう見方は絶対正しくありません。ただ、時代により地域によりそうした仏像の偶像的傾向が現れ、弊害が蔓延ったことは有ります。実際、お釈迦さまの国インドには土俗的な宗教にヒンドゥ―教があり、それは多神教で偶像崇拝と言って良いでしょう。仏教は八世紀に最後の繁栄をみせた後に次第にヒンドゥ―教に取り込まれ、その一宗派として残りました。この時仏像は偶像になっていました。
もう一つ大事なことは仏教では当初からお釈迦さまを仏像として制作したのではありません。むしろお釈迦さまを人物像として制作することを堅く禁止しました。それを仏教徒は無仏の時代と呼んでいます。それでも種々の理由から仏像を制作することがお釈迦さまの滅後数百年経った紀元1世紀ごろに始まったのです。そこで仏像がなぜ必要になったか、なぜ出現したのかとなりますが、その説明のためにはお釈迦さまはどのようなお方であったのか、その教え、すなわちお釈迦さまのおさとりとはいかなる内容かを理解する必要があります。
お釈迦さまは正式には釈迦牟尼といいます。釈迦はお釈迦さまの属した部族をシャカ族、牟尼とは聖者のこと、ですから釈迦牟尼はシャカ族の聖者のことです。釈迦牟尼を別に尊称して釈迦仏、釈尊とします。南方仏教ではゴ―タマ=ブッダという言い方がありますが、ゴ―タマをお釈迦さまの姓とし、その覚者のことです。
お釈迦さまの生涯の時代については、世界各地の仏教徒のあいだで種々の説があります。南方仏教徒はゴ―タマ=ブッダの入滅年代は紀元前544年か前543年だとします。西北インドからアフガニスタンに紀元1世紀ごろ勃興した大乗仏教の人びとは前480年ごろの入滅だとし、この説が中央アジア・西域地方から、東アジアの中国・朝鮮・日本に伝来しました。仏入滅の年には他の説もあります。
お釈迦さまの父は浄飯王、母は摩耶マヤ夫人と前回説明しましたが、もう少し詳しく述べましょう。
お釈迦さまはインド北方、ヒマラヤ山脈南麓の現在のネパ―ル国南部からインド連邦国北部のほぼ千葉県くらの小国カピラ国に誕生しました。でも都市国家で人口は多く、米作農業と商業の盛んな豊かな国で、気候も年間を通じて温暖、四季の花が種々に咲く、日本のような国でした。都市を支配する少数貴族(クシャトリア)の互選によって国王が選ばれました。お釈迦さま釈尊は国王スッド―ダナ(浄飯王)の王子として首都カピラ城に生まれました。母は東隣国のコ―リ―国の王女、両国の中間にあるルンビニ―園でお釈迦さまを産んだのです。その史跡はお釈迦さまの入滅後200年経った前3世紀に北インドを初めて統一したマウリア王朝のアショカ王が建てた石柱の碑文で証明されます。
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