本年は、拝島大師新本堂元三大師中堂落慶三十年です。江戸時代後期の文政二年(一八一九)、当山中興義順和尚が三多摩、武州は勿論、甲州・相州に至るまで広く勧進して完成した旧本堂は、如何せん手狭の為、皆様方御信徒の御参詣、とりわけ堂内での厄除修法等に多大の御不便をおかけしておりました。昭和五十八年五月三日、多宝塔落慶式に際し、天台座主山田恵諦大僧正猊下は、親しく新本堂元三大師中堂の建立発願を宣言されたのです。当拝島大師にとっての必要性、お座主よりの懇請、伝統建築を造営する学術的意味の三つが揃い、新本堂を建立し、七堂伽藍の中堂を造るという企画が発願されました。
用材欅一千本以上、関係した大工五十人以上、木造り八年、建て方四年、計十二年の歳月を懸けた大工事。重層唐様四手先組物、獏鼻五二、六観音、天と人の欄間彫物、青龍、朱雀、白虎、玄武の四神・十二干支多摩の地の動植物を彫った蛙股、唐獅子牡丹の向拝等の見事な彫刻。内部空間は比叡山根本中堂式、外陣でお参りするとお大師様が目の高さで拝めます。二重の屋根は上・下層の軒の出が同じで、雨垂れが上下同じ所に落ちます。上層は仏のさとり、下層は衆生の迷いを表わし、天台本覚思想にいう法界衆生界無二平等、迷いや煩悩を持った衆生が誰でも仏に成れるという天台宗の教えを建築で表現した、宗教と建築の一致。極めて独創的な名建築が、平成六年五月三日に出現しました。
京都大原三千院多紀大僧正が大導師の落慶大法要、一噌幸政の能管と山本東次郎の三番叟、地元三多摩文化財郷土芸能、東大芸大有志による尺八三絃の邦楽、東京大学民族音楽愛好会による南米アンデスの響き、等々の音と厳かさ、岸辺成雄・五味文彦・樺山紘一・後藤明・浜島正士・鎌田東二と山主による連続講演、戸田即日庵の供茶が華を添え、当代一流による大落慶法要が八日間繰り広げられました。以来それから三十年になります。ここで、本堂元三大師中堂建立までの経緯を再掲して行きたいと思います。このような大建築の出現に尽力され外護され、御信助・御支援・御協力を惜しまなかった本覚院檀徒各位、拝島大師信徒各位に厚く感謝申し上げます。