馬の次は鹿、『平家物語』老馬に御曹司義経は「さては馬場ござむなれ。鹿のかよはう所を馬のかよはぬ様やある。」と言います。馬と鹿は同類です。動物の鹿という漢字を説明します。鹿の字はその頭・角・四足の形に象る。ただ、四足に当たる部分の比は「鹿の足はあい比(なら)ぶ、比に従う」とあります。比はまた人の字を二字逆さにしたかたちで、人と人があい接して親密なことを意味し、二つのものを比べることになります。鹿の足がみな親密に見えるのでしょう。鹿はまた古代中国では帝位に喩えられます。「中原の鹿」「中原に鹿を追う」は古来さまざまな典故があります。唐の詩人温庭筠の「五丈原を過ぐるの詩」には、「下国臥龍空寤主、中原に鹿を得るは人に由らず」とあり、『晋書』石勒載記には、「もし(後漢の)光武(帝)に遇い、中原に駆るべく、未だ鹿誰れの手に死すかを知らず」という。唐の魏徴も述懐詩に「中原はたまた鹿を逐うに、筆を投げて戎軒に事めよ」といいます。鹿は殷周以来帝王が狩猟で手に入れた獲物の代表で、帝位に比定されているのです。
前漢司馬遷は『史記』淮陰侯伝に、「秦はその鹿を失い、天下ともにこれを逐う」とあり、その集解の注には「張晏曰わく、鹿をもって帝位に喩うなり」とあります。秦がその鹿を失うのに関係した人物に宦官趙高が居ます。趙高は鹿を指さして馬と言ったことが有名で、馬鹿バカの語源となります。同じく司馬遷『史記』秦始皇本紀には、「趙高は乱を為さんと欲し、群臣の聴かざるを恐れ、すなわちまず験(実験)を設け、鹿をもって二世(皇帝)に献じて曰わく、馬なりと。二世笑いて曰わく、丞相誤りや、鹿を謂うに馬と為すと。左右に問うに、或いは黙す、或いは馬と言い、もっておもねて趙高に順う。或いは鹿という者は、趙高よってにひそかにこれを鹿という者を見付け、刑罰=死罪に処した。後に群臣皆趙高を恐る」。ここは単なるバカ馬鹿者の起源ではありません。絶大な権力をもってめちゃくちゃな自己中の考え方を進める政治家ほど恐ろしい存在はないというのです。もっともそのような馬鹿者を追放すべく大勢が立ち上がりました。ところで趙高と二世皇帝が馬・鹿の論争をしている最中、秦初代の始皇帝の陵墓建設が進められ、生けるがごとき兵馬の塑造(兵馬俑)六〇〇〇以上が造られ、始皇帝の命令で進軍する本営が造られました。軍事作戦本部から鹿の骨が発見されたことから、始皇帝は鹿の骨を使用し、軍事作戦の占いが行われたと考えられます。
話題をインド・仏教関係の鹿の話しに変えましょう。お釈迦さまが成道してさとりを開いた後、はじめて説法した場所は中インド波羅奈国鹿野苑でした。略して鹿苑とも、施鹿林ともいいますから鹿が沢山居るのどかな田園でしょう。大乗仏教では、その初の説法は華厳経だと言います。だから華厳経に基づく華厳宗大本山の奈良東大寺には鹿が沢山居るのです。もっとも法相宗大本山の興福寺や春日大社辺りの奈良公園一帯に鹿が居ますが、春日大社に鹿が居るのは別の由来があります。春日大社の春日の神は七、八世紀の奈良時代前後に関東から鹿に乗ってきたと謂われます。関東は常陸国(茨城県)最南端の鹿島に鹿島神宮があります。これも地名に鹿が付きます。鹿島神宮は二メ-トルにも及ぶ大刀を御神体とする古い神社です。ここに因んだ故事に鹿島立ちという語があり、旅行のことを意味します。ここから鹿が神さまを載せててくてく東海道を歩いて奈良まで旅立ちして春日大社の神になった。普通、奈良・京都から文化が東向し草深い関東に来たとされます。関東山地は鹿が多く、近世でも青梅市北小曽木の木崎義平家石灰文書に「猪鹿多く発向雰(ほう)深き」地と出ます。逆も有ったのですから楽しいでしよう。
脱線しましたが、仏教関係の鹿に戻ります。『法華経』譬喩品に、火がついて燃えている火災の家の中で遊んでいる子供に、羊車・鹿車・牛車を与えるからといって外に出させ、出たところで大白牛車に全員乗せて助けたとあります。羊車は声聞乗、鹿車は独覚乗、牛車は菩薩乗の三乗を譬喩したもので、さらに大白牛車は全員を乗せる一乗の済度です。鹿車が独覚乗であるのは、釈迦入滅後に鹿が多く棲む静かな山林で修行するのが独覚、独力でさとりに向かう人を言います。辟支仏・縁仏とも言います。なお、仏教以外の修行者に瞑想やヨガだけで修行したというものが居ますが、彼らも多く鹿林中で生活しました。極端なものに鹿戒というのがあります。外道の一で鹿の挙動を学び、鹿の食うものを食って生天の因と考える菜食主義者です。鹿渇という語があります。陽炎と同じで、砂漠にただよう水の気を鹿がそれを水と思って渇望します。所詮蜃気楼です。鹿皮衣も外道修行者着用です。以上、挙げれば仏教関係では鹿はろくなことがありません。なお、漢字の鹿の音は「ろく」です。