三月二十一日ごろの春分、九月二十三日ごろの秋分の日は、昼と夜の長さが全く同じで、その日太陽は真東から昇って真西に沈むというのです。太古より人類は太陽と月や星の動きを注目し、観察し、関連づけ、知識や智恵を得て来ました。
紀元前2、3世紀の前漢時代の書物『周礼』に「天子は常に春分には日を朝し(太陽をまつり)、秋分には月を夕す(月をまつる)」とあり、春分は冬至から少しずつ勢いをました太陽がより一層強くなり農作物が順調に育ち、生物が繁茂して行くのを願い、秋分は夏至を経て成熟から収穫への予祝を夜長の月に願ったのでしよう。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があります。日と月、陽と陰、昼と夜、夏と冬など、相対するのでなく、緩衝点、いわばクッション点となっており、春分・秋分を中日として、前後三日間を考えた七日間が彼岸ということになりますが、それは仏教思想に由来してのことです。
人が生死に苦しみ、悩み、迷う現実のこの世を此岸(しがん)とし、そこから抜け出て超越し、自由な、仏のさとりの境地を彼岸、一には到彼岸(波羅蜜多はらみった)といいます。
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ、酔ひもせず
イロハニホヘト チリヌルヲ ワカヨタレソ ツネナラム ウイノオクヤマ ケフコエテ アサキユメミシ ヱヒモセス
イロハ歌として知られますが、『平家物語』の冒頭にも引かれた「諸行無常」に通じて、
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
諸行は無常である 是れ生滅の法なり 生滅滅しおわりて 寂滅を楽とす
それを説いたのが弘法大師の「文は一紙に欠け 行は即ち十四 謂うべし、簡にして要約にして深し」と言う「摩訶般若波羅蜜多心経」(いわゆる般若心経)でしょう。
『続日本紀』淳仁天皇天平宝字二年(758)八月十八日の詔勅として、
摩訶般若波羅蜜多は、諸仏の母なり、四句の偈などを受持し読誦すれば、福寿を得ること思量すべからず、これをもって、天子念ずれば、兵革、災難、国内に入らず、庶人念ずれば、疾疫、病気、家中に入らず、惑を断ち、祥を獲ること、これに過ぎたるはなし、宜しく天下諸国につげ、男女老少を論ずることなく、口に閑(しず)かに、般若波羅蜜多を念誦すべし。
とあります。衆生、人々を救ってくれる阿弥陀如来の浄土は西方にありと信じられ、太陽が正西に沈む春分。秋分の頃は一段と仏事が行われ、彼岸会、彼岸法要が行われ、嘉節ともされました。
室町時代、中世公卿の備忘録的な『拾芥抄』には、
八月彼岸、諸仏の浄土に到らんと欲する者は、二、八の月、八王堯会の時に、彼岸に到る斎会法を修す、是れ、吉祥の時と云ひ、又浄満と云ふ、この時功徳を修する者は、所願成就、凡そ万事相叶ひ、滅失せず。
とあり、また、藤原頼長『台記』には、
彼岸潔斎、夜前に沐浴後、浄衣の服を着、浄筵に居り、心経廿一巻をあぐ、彼岸中に一事を願えば成就せざるはなし。
とあります。
『源氏物語』行幸には、
かくのたまふ(源氏が玉鬘の裳着のこと)は、二月ついたちごろなりけり、十六日ひがんのはじめにて、いとよき日なりけり。
とあり、『蜻蛉日記』天禄二年(971)二月には、
つれづれとある程に、彼岸に入りぬれば、なほ、あるよりは精進せんとて、上むしろ、ただのむしろの、清きに敷きかへさすれば云云
とあるように、平安時代ごろより、彼岸は仏事を行って、良い時節と考えられました。寺にお詣りし、法要に連なり、説法を聞くだけでなく、今、現在の自分とのかかわっての過去、そして未来、将来を思う時、人は必然的に親まで続く先祖、子や孫に思いをいたし、仏壇に手を合わせるだけでなく、分身ともされる墓地におまいりします。
花と線香は亡き人々の糧(かて)と言われます。
たまゆらの香のけぶりの果てにこそ、いとしき人のありかなるらむ
加えて良かれと思う物をお供えします。お盆は、お墓からお連れして家まで来てもらうのですが、お彼岸は、自ら出向いて会いに行きます。
春はこれから、農作業など仕事に励まなけばならず、秋の彼岸は取り入れ収穫に万全を期すためかも知れません。
春、秋ともにもち米で餅をつくりお供えします。小豆餡、大豆のきな粉がベ-スですが、ゴマもあります。春は牡丹の花が咲くので牡丹餅ぼたもちと言い、秋は秋の七草の一、萩に因みおはぎと言います。
ただし、お盆の時と同じく、親や、身内だけでなく、無縁の人にもお供えの思いを届ける。そのことで亡き人と共に今を生きる、それが伝統的なお彼岸の智恵だと思うのです。
今ここに入日を見てもおもひ知れ 弥陀の御国の夕暮れの空 「新古今集」
兄弟の相睦みけり彼岸過 (石田波郷)
牡丹餅の昼夜を分かつ彼岸かな (正岡子規)
多忙にて老いの実感わきもせず (八十七才 桑田ミサオ)