古典会だより -お節句の心ー

日本は春夏秋冬の四季に恵まれ、古来、季節の順当なめぐりを大切にし、節供・節会で祝いました。なお江戸時代から節供は節句に代わりました。節は節目の特別な日で、供は神仏に食物などの供え物です。正月のごちそうをおせち料理というのは正月節会が特に重視されるからですが、どの節句も特別のしつらいをなし特別のごちそうを用意します。

千年以上前の清少納言『枕草子』を見てみましょう。
「(正月)七日、雪ま(雪の間)の若菜つみ、青やかに、例はさしもさるもの目近からぬ所に、もてさわぎたるこそをかしけれ(普段は気にもしない菜に大騒ぎして)」
「十五日、節句まゐりすゑ」とあり、正月十五日には望粥の御膳、すなわち望の日の粥を供します。延喜式では米・粟・黍・小豆・胡麻などとあるが後に餅を入れた小豆粥となりました。正月七日(人日の節句)の若菜つみの七草粥、正月十五日(小正月)の小豆粥が書かれています。
「三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の今さきはじむる。」
とあり、三月三日(上巳の節句、桃の節句)は宮中では曲水の宴(庭園内の曲水に臨み、詩歌を詠じ杯をとる)を張り、後世特に江戸時代以降には桃にあやかり女児の健やかな成長を祈る雛の節句として壇飾りをし,あられ・菱餅・白酒を供し祝うようになりました。
「節は五月にしく月はなし。菖蒲・蓬などのかをり(香り))あひたる。いみじうをかし。御節供まゐり、わかき人々菖蒲のさしぐし(櫛)さし」
「中宮などには、縫殿より御薬玉とて、色々の糸を組み下げて参らせたれば」
とあり、五月五日は端午の節句で、災厄を除き、邪気を払うため、香り高い菖蒲や蓬を軒に刺し、身に着け、色糸を組んで薬玉にして下げました。菖蒲は葉が剣の形に似て、菖蒲湯や菖蒲酒にもなり、粽や柏餅も供されます。江戸時代から男子のいる家では鯉のぼりを立て、甲冑・刀・武者人形を飾り祝うようになり男子の将来を寿ぐ節句でした。戦後になって、子供の人格を重んじ子供の幸福をはかる趣旨で国民の祝日の一とし、五月五日は子供の日と定められました。三月では入試・卒業、移動の時期であり、青葉若葉の生命力溢れる時にあやかってのことでしよう。ただ、日本では古来、子供をいとおしむ作品が数多くあります。

その一は『万葉集』山上憶良の「子供を思ふ歌一首」でしょう。
「釈迦如来、金口に正に説きたまはく、等しく衆生を思ふこと、羅睺羅の如しとのたまへり。又説きたまはく、愛は子に過ぎたりといふこと無しとのたまへり。至極の大聖すら尚し子を愛しぶる心あり。況むや世間の蒼生の、誰かは子を愛しびずあらめや。瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ 何処より来りしものそ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ

反歌 銀も金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも」
(釈迦如来が口ずから説かれることに、生きとし生けるもの達への思いは、実子の羅睺羅へのと同じであると仰せられた。またお説きになって、子に過ぎたる愛はなしと。至極の大聖釈迦如来すらも尚し子をいとおしむ心があるのだから、世間一般の普通の人で、子を愛さない人がいるだろうか。瓜を食べると子供に食べさせたいなと思い、もっとうまい栗を食べた時はなおさら子供にもと思ってしまう。子供とは、一体どこから来たのだろうか。目の前に、しきりとちらついて、安眠させてくれない。銀も金も玉も一体何になろうか。子供に及びまさる宝はありやしない。)

鷺流狂言小舞に、
「兎角子供達はいたいけながよい物(かわいいもの)、あいや上ろ上ろ肩に乗せて御所へ参らう ねんねこねんねこねんねこや、目だに覚むれば手打手打あわわ、かぶりかぶり潮の目、よとる舞のはりうりにかくれんぼ、はり鞠蹴よ手鞠つこ、正月がおじゃれば玉打たふ羽つかう、かるた将棋双六、丁か半も好い物、弓矢振鼓、五月がおじゃれば竹馬に打ちのって印地しよ、七月がおじゃれば木曽踊始めて、振りをよう踊ろよ、兎角踊らにゃ気が浮かぬ」。
子供をあやし、喜ばせる仕草付きの歌で、当時江戸時代の子供の遊びもうかがえます。一一六九年後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』に残る今様(今のはやり歌)は子供の姿を活写しています。
「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんむとや生まれけむ、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動がるれ(遊び戯れをしようというので生まれて来たのであろうか、遊ぶ子供の声を聞くと、我が身でさえ自然と体が動き出してしまう)」。

声張り上げて体を動かして、競争するには頭を使って、子供の遊びは身体を使い、成長するには食べ物です。健全なる子供の成長に、節目で思いを新たにし、おいしいもの、心尽くしのごちそうを食べる喜びの節句でありたいものです。インスタント食品を食べ、黙って動かずにゲ-ムばかりの子供では、心配です。