一月二日・三日、拝島大師初縁日には江戸時代より続く全国一早いダルマ市が立つことで有名です。ダルマは南インド出身菩提達磨の、面壁九年座禅姿に似せた張り子の玩具で、大師が緋の衣を着ていたというので、赤く塗っています。また、底を重くして、倒してもすぐ真直ぐに立つようになっており、「七転び八起き」「不倒翁」の別称もあり、特に開運の福ダルマと呼ばれ、縁起物となり、家内安全・商売繁盛・心願成就の願いをこめるようになりました。
万延元年(一八六〇)横浜が開港し、そこから欧米各国へ生糸・絹の輸出が増大するに伴って、現国道十六号が横浜-相模原-八王子-拝島-箱根ヶ崎-豊岡-扇町屋-川越さらに群馬、栃木と結ぶ、いわゆる日本の絹の道、シルク=ロードとして登場してき、街道周辺農村に養蚕製糸業ブームが到来して来ました。こうした中で、蚕の病気に効き目があり、良質の糸が沢山とれることを願って始まったのが、農家の副業による紙製ダルマで、関東での元祖は群馬県高崎の黄檗宗少林寺です。瞬く間に南下して川越、所沢付近に普及しました。当拝島大師のダルマは多摩ダルマと呼ばれ、所沢三ヶ島から伝来し、年頭の縁日として賑わう拝島大師の市に出たのが始まりです。
古来、赤は魔除けの色としても尊ばれ、ダルマの「起き上がり」と繭の仕上がりの良さを語呂合わせで飾りましたが、加えて縁起物として一般にもてはやされるようになり、その際、恐らくは画竜点睛の語に因み、ダルマに目を入れるようになりました。ダルマを買うと、しかるべき時に願いをこめて片目を黒く入れますが、右、左のどちらから先か、という質問をよく受けます。その際、拝島大師では向かって右、ダルマにとっては左目からとしています。どちらが正しいという事ではなくて、由来を申しましょう。それは右と左の何方を重んずるかに関係します。
司馬遷の『史記』に烏孫王昆莫が漢との親交を望み千匹の馬を贈り、漢女を娶り、右夫人とした。漢と対立していた匈奴もまた、女を遣わし昆莫の妻としたが昆莫はもって左夫人とした、という記述があります。漢と匈奴に挟まれていた烏孫王はそれぞれと結婚し、当時漢は右を上とし、勝れた方としていたので漢女は右夫人に、北狄とされた匈奴は左を尊んでいたので左夫人にと、賢い事をしたというのです。中国歴代王朝で、戦国、秦、漢、元は右を尊び、唐、宋、明、清各王朝は左を上としました。しかし、朝官に於いてと、燕飲・兵事の際とでは逆になります。ただ言えることは、日本古代国家の律令制度は中国唐時代のものであり、左が上とされていたので、古来より日本では左の方を尊んで来ました。左大臣が右大臣より上という風にです。
「天子は南面す」という言葉があります。京都御所に見るように内裏は南面しており、従って雛人形の飾りも内裏雛は古来、男が向かって右、女が左に飾ったのです。天皇皇后両陛下の位置もしかりでしたが、最近は逆になっています。(昭和天皇とマッカーサー元帥の並ぶ写真は興味深い所です)。
ところで、右とは北に向かって東の方を言い、古代中国人の宇宙観たる陰陽五行説(万物を陰と陽、及び木火土金水の五要素の相生、相剋によるはたらきと見る考え方)によると、東と南は陽の気(従って祈願のお札などはこちらに向けて飾るのです)、西と北は陰の気と言います。物事をなすに際して、まずは発心、心を起こすことが第一とすれば、ダルマを南に向けて置き、向かって右の陽の方から起こす、目を入れて心を定める、ということになるのです。
首尾良く事が成就した時は、残りの片目を入れて、納めるのですが、事至らずという時でも、一年の区切りに際しては目を入れて納め、新規まき直しを図るというのが大方の習わしとなっています。
江戸時代以降昭和初期頃までの拝島大師信仰と、地域社会の重要な産業の養蚕製糸業との結びつきは、ダルマ市の創始だけでなく、文政二年(一八一九)建立の旧本堂左正面にかかる額や、文久三年(一八六三)の高欄擬宝珠に残る鑓水村生糸仲買い商人大塚徳左衛門の名によってもわかります。さらには、節分の時に配布の江戸時代以来の版木で刷った「大黒さん」のお札からもうかがえるのです。お札は、一見すると蛇のような筆使いで、俵の上に袋を背負い小槌を持つ大黒様です。蚕の大敵である鼠を食べてくれる蛇です。右に「蚕養随望 桑絲畳匣 元三大師(蚕を望み通りに養い、糸が幾篋も積み重なるほどできますように、元三大師さま)」、左に観音経の「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量(一切の功徳を具え、慈悲の眼で衆生を慈しみ、福の聚ること海の如く無量なり)」とあります。大師さまは観音さまの化身と信じての事で、家内安全・厄災消除を願って、人びとはお札を戸口に貼るのです。