承和五年(八三八)七月二十五日、寅の時(午前四時ころ)、出発した。人びとは疫痢を患っている①。行列を組む船の順序は一定していない。先行の船が停留して後番となり、後行の人が進んで先頭前進する。
海陵県城より宜陵館に至るは五〇里余(二五キロメ-トル)、揚州城には六五里(三二・五キロメ-トル)である。巳の時(午前一〇時ころ)、仙宮観②に到った。直行して途中寄り道しない。未の時(午後二時ころ)、禅智橋③の東側に到って停留した。橋の北に禅智寺がある。延暦年中、副使の忌日の事④をこの寺において修めた。橋より西に行くこと三里(一・五キロメ-トル)、揚州府がある。遣唐大使は国政を通じるため押官らを府役所に遣わせたが手続きが遅れ、申の時(午後四時ころ)になって出発した。江中には大舫船・積蘆船・小船などが数えきれないほど有る。申刻の終わり、揚州府城東郭の水門に行く。酉の時(午後六時ころ)、揚州府城の北江に到って停留した。遣唐大使らは陸に登って宿住された。いまだ揚州府役所の役人には会っていない。請益・留学僧は下船できない。夜に入って雨が振り、辛苦することがもっとも激しい。
七月二六日、日暮れ時、下船して江南官店に宿住した。両僧すなわち請益・留学の二種の僧たちはおのおの別房に居ることになる。
【語句説明】
①疫痢を患っている・・原文は「痢を患っている」だけであるが、痢には疫痢と赤痢の二種がある。後者は伝染力が強く隔離の必要があるが、前者は症状が軽い場合は日常生活に飛翔支障は少ない。
②仙宮観・・小野勝年氏は後世の仙女観とし、『酉陽雑俎』に見える女道士康紫霞の居た揚州東陵聖母廟というのに比定するが妥当な理解である。
③禅智橋・・これも小野勝年氏は『旧唐書』巻一六四、王播伝に見える唐の王播が塩鉄転運使として揚州に赴任した時、揚州城内の官河(運河)が浅いので、旱に遇ったらたちまち漕運船が滞留してしまうとして、城南?門西七里港より官河を開削し、東に向かって屈曲し、禅智橋までの区間を取って、旧官河を通じさせたいと上奏した。浚渫工事の結果、開鑿はやや深く、船運航は済り易く、開削するところは長十九里に及んだという記事を紹介し、この塩鉄転運使王播の運河開削が宝暦二年(八二六)のことで、遣唐使一行は修理の後数年にして(一二年後)、この運河を利用したことになるという。
④副使の忌日の事・・延暦二四年(八〇五)遣唐副使石川通益のこと、『日本後記』巻一三、延暦二十四年八月の条に石川通益は遣唐使中、「大唐明州に卒す、朝廷これを惜しむ。卒年三十三なり。」とある。これも小野勝年氏の考証がある。
【研究】本節の記事から遣唐使一行、それに随行した請益僧や留学僧
が唐帝国に入国した時の労苦が具体的に分かる。入国二六日にして疫痢は唐の水に当たって激しい下痢になった。次に遣唐使一行を迎える唐地方行政機関末端の県役所や鎮役所では仮入国手続きで、州府役所でしか入国手続きはできない。長江以南では浙江の明州(寧波)である。長江北では本記事に出てくる揚州である。さらに空海一行のように南へ漂流した時には福建の福州・泉州、さらに南の広州である。浙江の越州(紹興)は補助であろう。その中で揚州は隋煬帝も滞在したことのある東南沿海最大の国際海港都市である。ここには南朝や隋以来、奈良時代に戒律を伝え唐紹提寺を開いた鑑真和上が住した揚州大明寺などの大仏教寺院が所在する。円仁が揚州に到着する直前に揚州蜀岡禅智寺が日記に出てくる。ここで円仁は「延暦年中、副使の忌日の事をこの寺において修めたり。」と記す。小野勝年氏は円仁一行が揚州に到着して間もない、入国手続きも済まないあわただしい時期に延暦年中、副使の忌日の事、すなわち法会を行うことはないとするが。同寺での滞在時間はおよそ一刻二時間はあるので、追悼法要は充分可能である。遣唐使の旅行中に遭難した者や帰国出来ず彼の他国で生を終えた者たち、有名なものは阿部仲麻呂・藤原清河・紀馬主・田口誉年冨・甘南備真人信影・紀三寅・掃部明で次回渡海の遣唐使が日本朝廷の命令でそれぞれに贈位し、遣唐使が主祭したのであった。ここでは延暦二十四年遣唐使の副使石川通益の法要祭祀である。今回の承和遣唐使の直前の遣唐使で未祭祀であったからである。また、これが唐現地側の寺院で施行されるというのも重要である。遣唐使一行は唐側が上陸を認めてくれない。前回の遣唐使犠牲者を追悼するのは今回遣唐使の責任で、唐揚州禅智寺でそれが実現できた。 遣唐使は揚州府役所で丸一日滞留され、夜になると雨も降ってきて辛苦が激しい。翌日上陸宿舎が見つかったが官店という官経営の商人の倉庫宿である。ここは塩鉄転運使管轄の重要な経済地帯である。以下次号