慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その15-

○十月十九日、惟正・惟皎を受戒①せしめんがために、判官録事に牒報す。大唐文宗大和二年(828)②以来、諸州多く密かに受戒を与うるがために、官符を諸州に下し、百姓が剃髪して僧となるを許さず、ただ五臺山に戒壇一処③、洛陽終山に瑠璃壇一処④のみ有り、この二よりほかは皆悉く禁断せり。これに因り、所由(所管庁)に報じて処分を取ることを請うなり。

○二十二日、早朝、彗星を見た。長さ一尋(ひろ)ばかり。天の東南隅に有り。雲に覆われて多くは見えない。開元寺主令徽の談話に言う、「この星は剣光である。先日、昨日、今夜と三箇夜に現れた。日ごとに李徳祐相公は怪しみ、毎日七箇の僧に七日間涅槃経・大般若経を転読せしめた。諸寺もみな然り。また去年三月にもこの星が有り、極めて明るく、極めて大きい。天子は驚き怪しみ、殿上に居なかった。別に卑しい座に居て、細布を着て、長い潔斎をし、罪人を恩赦したが、今年もそうなるはずだ」と。あるいは聞くに、本国日本で見た星の状況と寺主の談話は符合する。

【語句説明】
①受戒・・・中国では受戒は在家の受ける十戒と出家すなわち比丘比丘尼の受ける具足戒とがある。惟正・惟皎は在家である。
②文宗大和二年(828)・・・大和二年は元和二年の誤りという説もあるが、そうすると、憲宗の807年である。受戒・得度者は徭役免除などの特典があり、官許を得ない私度者が多く、また全国に戒壇が二十箇所もあるなど、制禁が緩んでおり、国家はしばしばその制禁を図った。ただ、慈覚大師円仁の入唐に近い文宗大和二年に最近の禁令が発布され、全国に戒壇二箇所となったとも考えると、円仁の指摘は誤りではない。
③五臺山に戒壇一処・・・五臺山竹林寺万聖戒壇、行記によれば円仁はこの戒壇で惟正・惟皎を受戒させている。
④洛陽終山に瑠璃壇一処・・・河南省登封県嵩山会善寺の瑠璃壇。終山は嵩山の誤り。長安で武宗会昌の廃仏を経験し、ほうほうの体で急ぎ帰国した慈覚大師円仁の混乱した記憶のためであろう。

【研究】
○円仁は、その入唐の時期、中国唐では戒壇が二箇所という。日本では奈良・平安時代に中央は東大寺戒壇、東国は下野国(栃木県)薬師寺戒壇、西国は筑前国(福岡県)太宰府観世音寺戒壇の天下三戒壇。伝教大師最澄の申請で比叡山延暦寺に新たに戒壇が建立された。仏教を締め付ける中国と仏教を発展させようとする日本の対比が見られる。なお、本分後半で彗星の記事が興味深い。唐皇帝にしても、地方長官も不吉な予感に驚き怪しみ、仏法読経の力にすがる様が描写されている。

以下次号