○正月二十日、暮れ際、僧正①が来て、あい看て慰情(慰問)した。
○正月二十一日、斎の後、遣唐大使等の去年十二月六日の書が将来された。案ずるにその書状にいう、「十二月三日平善(平安)に上都②に到り、東京③礼賓院に安置せられた」と。その状は別のごとし。長判官の傔従(従者)村清が同月同日の状にいう、「今月三日辰の時(午前8時)、長楽駅④に到り、勅使迎え来り、詔問を伝え陳べ、遣唐大使は礼賓院に到り、兼ねて朝拝畢るものなり」と。ほぼ事由を知る。
○正月二十五日、延光寺⑤僧恵威に就いて、『法花円鏡』三巻⑥をもとめ得たり。
○閏正月三日、当寺は、僧正の入寺を慶いて、諸寺の老宿を庫頭⑦に屈し、空茶・空飯⑧し、百種のもの周く足る。兼ねて音声を設く。
○閏正月四日、新羅訳語の金正南の請願により、修理所で船を買い、都匠・番匠・船工・鍛工ら三十六人をして、楚州に向かってゆかしむ。人は当寺いおいて僧侶を請いて雨を乞わしむ。七人をもって一番となし、もって経を読ましむ。
【語句説明】①僧正・・・前回の正月十八日の終わりの記事に「近ごろ、潤州(鎮江府)の鶴林寺律大徳光義を屈来して、しばらく恵照寺に置いた。相公李徳裕は擬すにこの僧をもって、当州の僧正となし」とある。②上都・・・『新唐書』巻三七、地理志に、「上都、初め京城といい、天宝元年(玄宗、742年)西京といい、至徳二載(粛宗、757年)中京といい、上元二年(761)復た西京といい、粛宗元年(762)上都という」とある。いずれにしても唐都長安のこと。なお、粛宗元年とは粛宗が崩御して、廟号を粛宗と称した初め年で、新皇帝は代宗、四月に改元して宝応元年となった。③東京・・・一般には洛陽のことであるが、小野勝年氏によれば長安東城、礼賓院は長安東城長興坊に設けられていたから。なお、礼賓院は外国賓客を宿泊接待する施設。④長楽駅・・・長安東方の駅路にあり、長安城春明門に至る。『続日本紀』巻三五、宝亀十年(779)四月の条に、「往事遣唐使粟田朝臣真人等、発して楚州より長楽駅に到り、五品舎人、勅を宣べて労問す」とあり、『日本後紀』巻一二、延暦二十四年(805)六月の条に、遣唐使藤原葛野麿の報告により、「十二月二十一日、上都長楽駅に到り宿す。二十三日、内使趙忠飛龍家細馬二十三匹をもって迎来す」とある。遣唐使が長楽駅に到ると、唐朝廷から勅使の迎えがあるのが慣例であった。⑤延光寺・・・鑑真和上『東征伝』に、「大和尚は南振州より来り揚府に至り、経るところに州県、壇を立て戒を授け、空しく過ぎる無きものなり。今、龍興・崇福・大明・延光等寺に於いて、律を請い戒を授け、暫くも停断すること無し」とある事例のみで、他の傍証はできない。ただ、四寺で他史料の確認ができるのは崇福・大明両寺である。⑥『法花円鏡』三巻・・・円仁「入唐求法目録」には『法華経円鏡』七巻とある。小野勝年氏はそこに「欠第四六七巻」とあるのを、四巻・六巻・七巻の三巻欠としている。⑦庫頭・・・庫裏(くり)のことか。⑧空茶・空飯・・・空は空首拝、恭しく茶を捧げる意味。空飯も恭しく飯を捧げる。中国寺院の儀式的作法である。
【研究】
揚州開元寺滞在中、正月十八日の夜明け前の暁の薬粥食事から、斎時飯食など、百種、味を尽くすという。ただ、以下に配給になる米が好悪二種に分けられ、好は唐都長安の皇帝の食事に献上、悪が地方の飯米にされるなど、唐の財政事情の具体が分かり、興味深い。また地方の仏教僧侶の統制役に当たる上座僧侶に僧正の職を節度使が与えるというのも注目してよい。