慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その35-

○三月十九日、楚州の州刺史(知事)が、酒餞を設け相公を屈したが、相公は出席しなかった。但し判官以下着緋の人びと①が州役所で餞別のもてなしを受けた。朝の斎食後、請益僧円仁らは寺を出て船に赴いた。
○三月二十二日、早朝、沙金大二両・大坂腰帯一②を新羅訳語劉慎言に送り与えた。卯の時(午前六時ころ)、唐側の朝貢使は館を出て、船の処へ往った。同じく参軍已上は皆騎馬である。先触れの役をする喝道の人は八人である。巳の時(午前十時ころ)、御払いをして上船した。航海安全の神である住吉大神を祭った。請益僧円仁らは第二船に乗った。船頭は長岑判官である。第一船は節下、すなわち遣唐大使である。第三船は菅判官。第四船は藤判官。第五船は伴判官。中丞すなわち州刺史が軍将を遣りて九隻の船を監送させた。勅命があり、牒を一行がこれから通過する州県である海州・登州に案配を指示した。第一船の水手甑稻益は従者と死亡事件を起こしていたので取調中、乗船を許されなかった。遣唐大使は船団準備を確認した上で監送の軍将の船に乗った。酉の時(午後六時ころ)、棹を動かして出発、黄河を出て淮河南辺に到って停宿した。
○三月二十三日、未の時(午後二時ころ)、新羅訳語劉慎言は細茶十斤と松の実とを贈って来て、請益僧円仁に与えた。先の沙金などを貰ったお返しである。申の時(午後四時ころ)、唐人からき聞いた話では日本出発時の第二船は今月十四日に、海州東海県から帰国のため出港したという。その虚実は不明。ここ楚州は北に淮河が西から東へ流れるという。それを行くと東海に到る。夜分、円仁は延暦寺に消息一通を作成し、遣唐大使と従者近江博士の粟田家継に持参させた。
○三月二十四日、酉の時(午後六時ころ)、太鼓を鳴らして、黄河から淮河に出て、停宿。因みにこの時代黄河は山東半島の南方で東海に注いでいたのである。

【語句説明】
①着緋の人びと・・・緋色の服装は五品官以上の官吏が着用できると唐制では規程された。②沙金大二両・大坂腰帯・・・沙金大二両は一両五〇グラムとして一〇〇グラム、相当の金額である。大坂腰帯は大坂河内出土の石をはめ込む帯。当時高価な品。

【研究】
唐の開成四年(839)三月十九日以降、楚州、現在の江蘇省淮安市で遣唐大使とともに、乗船して東海へ向かった。そこで円仁は遣唐使一行とは分かれて残留する。延暦寺あての消息を作成して帰国する大使等に持参して貰った。円仁は楚州で新羅訳語の劉慎言を雇用した。相当に高額の謝礼である。

川勝守著『万葉集と東アジア世界 上・下』刊行
本書はわが国の最初の国書・国民文学と言われる『万葉集』を国語・国文学また比較文学などの面での膨大な研究の上に、あえて「屋上屋を重ねる」愚を犯して「万葉集と東アジア世界」を論じようとするものである。ただ、私の「万葉集と東アジア世界」論はこのテ-マから窺える、万葉集は万葉仮名を使って日本語の固有な表記を行っても、所詮は中国文化の傘の中でのできごとであり、また、中国古典文学の『文選』の焼き直しに過ぎないなどなど、万葉集への中国文化の影響を数えあげると言った著作では断じてない。万葉歌人たちがいかなる環境で歌を詠んだか、その環境を当時、天平時代とその直近の時代に即して東アジアの国際的環境との関連で広く捉えてみようとしたい。この場合、当該時期の中国、朝鮮諸国との外交関係だけではなく、中国王朝の政治文化、律令制度とのからみも考察視点の一になる。
全二十章、『万葉集』4516首、結びの2章「大伴家持と万葉集」「万葉集と東アジア世界」。索引、英文レジュメ掲載。
汲古書院、上巻令和2年4月15日、下巻令和3年5月20日刊