拝島大師のお大師さまは醍醐天皇延喜一二年(九一二)九月三日のお誕生で、幼名を観音丸と言い、小さい時から聡明な児でした。十二歳の延長元年(九二三)五月三日、比叡山に登りました。それからお坊さんに成るため、一生懸命に学問修行に励みました。数年にしてその学徳は比叡山のトップクラスに抜きん出、延長六年、十七歳で天台座主尊意について得度出家し、良源と名乗りました。翌年には比叡山の論議、すなわち仏教論争で名声を挙げ、ますます学問修行に励みます。朱雀天皇承平七年(九三七)、二十六歳の大師は奈良興福寺の維摩会に比叡山延暦寺を代表して出席します。天皇の勅使の房で論義があり、法相宗の学僧を論破しました。名声が朝廷に聞こえ、天慶二年(九三九)藤原氏の有力者であった摂政藤原忠平に認められました。忠平が薨去した天暦三年(九四九)に比叡山北辺横川に隠棲し、忠平の没後の追善を行いますが、翌年には皇太子護持僧となり、さらに同八年(九五四)横川法華三昧堂を落成して忠平の嗣子師輔を迎えました。師輔は藤原氏の五摂家の九条家の祖とされる有力者で藤原道長の祖父に当たります。大師は藤原師輔の外護を受けることになります。藤原氏の本流と結んだ比叡山延暦寺は仏教界最高の地位を獲得するのです。多くの秀才が比叡山に登り、大師良源の弟子になりました。恵心僧都源信や檀那流覚運阿闍梨、書写山開祖の性空上人などが有名で、お弟子の数は三〇〇〇人と言われます。
さて、拝島大師の七五三は、以上のように一生懸命に勉強修業し、人々に喜ばれ、期待されたお大師さまによくお祈りして、病気にかかったり、ケガをしないようにお願いし、さらに学校に行って先生に大事にされてよく教えてもらい、また良いお友達ができて、立派な大人に成人するようによく頼むことを目的とします。お大師さまはよくお願いすれば必ず希望をかなえてくれます。なお、お大師さまは永観三年(九八五)正月三日のご入滅により元三大師と称されます。厄除けの大師と言われ、病気平癒にもしばしば効果を現わし、おみくじを創始して人々の進路のまよいに指針を与えました。拝島大師のご本尊は比叡山横川に在りましたが、織田信長の兵火を避けて敬諶大僧都により、拝島の里の本覚院に安置されたのです。時に天正六年(一五七八)のことです。 合掌