お釈迦さまは世の無常を深く感じました。幸福の中にも、母后の死亡を思い出すこともしばしばでした。年中行事として盛大な農耕祭では、田畑の虫や鳥などが、弱肉強食の争いをみせています。またものごころがつくにしたがって、当時の国際関係の不安と、釈迦国の運命とが案じられるようになりました。釈迦族は勇武に冨み、由緒正しい古い伝統の人びとでありましたが、当時は南西に接したコ-サラ国に隷属した半独立国にすぎなかったのです。賢明なお釈迦さまは対策は何かをいつも考え、無事であることを念じ続けました。多くの理由によって、世の歓楽を手放しで享受するわけにいきません。自分の、自国の将来について、また人類一般の悲しむべき運命について、考察するようになりました。彼が王室の園林を遊行すべく、宮門を出ると、あるときは東門を出るとよぼよぼの老人に出会い、たまらなくなって宮殿に帰りました。あるときは南門を出ると痛み苦しんでいる病人に出会い、たまらなくなって宮殿に帰りました。あるときは西門を出ると親類縁者がなげき悲しむ死者に出会い、たまらなくなって宮殿に帰りました。あるときは北門で神々しいまでに聖なる出家者に出会い、お釈迦さまは出家を決意したとされます。以上を四門出遊の教えといいます。伝説に過ぎないかも知れませんが、お釈迦さまの心におこった、人類一般の運命への観察を示すものです。 どうすれば自分はこの運命を克服することができるか。出家の道を選んだお釈迦さまの決意は固く、夜半ひそかに王宮を逃れ出ました。国境まで達して、従者と愛馬を王宮に帰して、父国王に自分の出家のことを伝えたのです。父国王ら王宮の人びとはもはやお釈迦さまの出家を止めることはできません。その意思に従うほかはなかったのです。確実な資料によれば、お釈迦さまが二十九才の時でした。
お釈迦さまは当時、出家修行者が多く住む南方マガダ国に向かい、修行者たちの習慣にしたがって、首都ラ-ジャガハ王舎城の街路を托鉢しました。これを眺めたマガダ国王ビンビサ-ラは常人とは異なる釈迦の外見や態度に惹かれ、わざわざ食事を終えたお釈迦さまの処へ来て、その素性を聞き、政治や軍事の相談相手にならないかと頼みました。しかし、お釈迦さまは求道の決意を述べ、その依頼を断りました。王はしかたなく、修行が終わったら自分を教え導いてくれと頼みました。後にこの王はお釈迦さまの教えを熱心に聞く信者になったのです。
以下次号