慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その21-

○十一月十九日、廿四日の天台大師忌日の設斎①に宛てるがため、絹四疋・綾三疋を以て寺家に送れと言われ、留学僧が絹二疋、円仁ら請益僧が綾三疋、絹三疋である。なぜか合計すると絹一疋が増した。書状をそえて寺家に送らせた。その状は別紙にある。金額で銭六貫余銭である。

○十一月二十四日、堂頭すなわち開元寺食堂に斎食を設けた。衆僧は六十有余。幻羣法師が斎歎文・食儀式②を作る。衆僧共に堂裏に入り、次第によって列坐した。水を配る人が居る。施主僧らは、堂の前方に立った。衆僧の中で、一僧が木槌(きづち)を打つ。さらに別の一僧が梵唄をなす。梵頌にいう③「いかんぞこの経において究竟、彼岸に到るや。願わくば仏よ微密を開きて、広く衆生のために説きたまえ」と。音韻は絶妙にして、梵唄を作すの間、他の人が読経をする。梵唄が終わると衆僧が経を念ずること、各々二枚ばかり。そこで木槌を打ち、経を転じ終わる。次に一僧があり、「常住、三宝に敬礼したてまつる④」と唱える。
衆僧は皆床に下り立つ。そこで梵音師が「如来色無尽⑤」らの一行の文を唱える。如来唄の間、綱維がまず請益僧らを裏に入れ香を焚かせ、それに衆僧が続く。行香儀式は日本国と一般で、同じものである。その斎をなし人にすすむ法師は衆に先んじて起立し、仏の左辺に到り、南に向かって立つ。行香終わればまず歎仏する。日本国の呪願の初めに歎仏するのと異ならない。歎仏の後、檀越が先に設斎せんことを請う状を披き、次に斎歎文を読み終わると、釈迦牟尼仏を唱え念ずれば、大衆は同音にて仏名を唱え、次に唱礼する。日本で天龍八部諸善神王などの頌をいうのと同じである。立ちながら唱礼し、ともに床坐に登。斎文を読む僧並びに監寺・綱維及び施主の僧ら十余人が食堂を出で、庫頭(庫裏)に至って斎食す。それ以外の僧と沙弥とはみな食堂で斎食する。また庫裏において別に南岳慧思禅師、天台大師らの為に供養を設備する。斎の時、庫裏担当僧二人が諸事を備える。中国唐国の風習では設斎の時ごとに、飯食の外に別に料銭を留め、当該の斎食が終了すれば、銭の多少、僧衆の数などに随って僧に分与した。ただし、斎文を作った人には別に銭数を増した。もし衆僧に三十文を与うれば斎文を作った人には四百文を与えた。これを儭銭という。これは日本で布施というのと同じである。斎食後、同じく一処において口をすすぎて房に帰る。凡そ寺の恒例として、もし施主あり、明朝粥を煮て僧に供すとするに、時節が暮時ならば人をして「明朝、粥が有る」と巡報させる。もし設斎が時晩がたであれば告げない。ただ当日の早朝に人をして「これから粥が有る」と巡り告げさせる。もし当寺に到り転経を請う人が有る時も、また人をして「堂に行きて経を念ぜよ」と言わしむ。揚州府中には四十余寺があり、もしこの寺に斎を設ける時は彼の寺の僧次すなわち長老たちを招き来りて斎食の儭銭を得させる。かくのごとく転々として斎事あるに随って、あまねく寺名を録し、次第に余寺の長老僧を招く。こうして各寺の僧の年齢順が定まる。一寺がしかれば余寺もしかり。互いに寺次をとり、互いに僧次をとる。斎の経済力の格差で招く僧数は異なる。一寺一日の設斎は当寺の僧次と招待された寺の僧次を合わせて計算する。また唐には化俗法師という僧が居り、日本の飛教化法師というのと同じである。世間の無常と苦空の理とを説き、男弟子・女弟子を化導する。これを化俗法師という。経・論・律・記・疏などを講ずるは座主・和尚・大徳と名付く。納衣を着、心を収めるようであれば禅師と名付け、また道者という。持律あまねく多きものは律大徳という。講ずれば律座主となす。その余もkれに准ず。去る十月より以来霖雨数度あり、相公は七箇寺に牒状を下し、各七僧をして経を念じ、晴れを乞わしむ。七日を期限とした。終了に及んで晴れた。唐国の風に、晴れを乞うときはすなわち路の北頭を閉ざし、雨を乞う時は路の南頭を閉す。相伝に晴れを乞うとき北頭を閉ざすは陰を閉ざせばすなわち陽通ず、天を晴らしむに宜しきなり。雨を乞う時は南頭を閉ざすは、陽を閉ざせばすなわち陰通ず、雨を降らすに宜しと。

【語句説明】①廿四日の天台大師忌日の設斎・・・十一月二十四日の天台大師忌日は比叡山では霜月会と呼び、それが各地に普及した。忌日の小豆粥を食べる風習は日本各地の各寺院でかなり行われていた。しかし、中国では必ずしも十一月廿四日の天台大師忌日を各寺院で行うことは無く、揚州開元寺でも当寺の年中行事にしていない。そこで円仁らは日本から持参した絹・綾を寺に布施して斎会を依頼したのであった。②幻羣法師が斎歎文・食儀式・・・幻羣法師は不詳。斎歎文・食儀式・・・斎食の功徳を讃歎する文と斎食儀式の次第を明らかにしたもである。比叡山天台宗では宗祖最澄が入唐天台山行に際し、斎文式一巻を将来した(「越州録」)が、円仁もまた揚州で「内供奉談筵法師歎斎格并文」一巻及び「集新旧斎藤文」五巻を将来している。こうした日本の寺院での食事作法は儀式として中国伝来のものでそれを千年以上も厳格に守ってきたのである。③梵頌にいう・・・梵頌は梵語サンスクリット語の音曲であるが、漢語讃であり、現行では「云何於此経、究竟到彼岸(いかんぞこの経において究竟、彼岸に到るや)しか用いない。冒頭二字を採って云何唄といい、灌頂法会に唱える。内容的には後半の「願仏開微密、広為衆生説(願わくば仏よ微密を開きて、広く衆生のために説きたまえ)が重要な句である。『大般涅槃経』第三の経文が出典であり、「云何得長寿、金剛不壊身、復以何因縁、得大堅固力、云何於此経、究竟到彼岸、戒香定香解脱香、解脱知見香、光明雲台遍法界、供養十方無量仏、見聞普薫証寂滅、願仏開微密、広為衆生説(いかんぞ長寿、金剛不壊の身を得るや、また何の因縁を以て大堅固力を得て、いかんぞこの経において究竟、彼岸に到るや。戒香・定香・解脱香、解脱知見香、光明の雲台は法界に遍く、十方の無量の仏を供養し、普く薫証せる寂滅を見聞せり、願わくば仏よ微密を開きて、広く衆生のために説きたまえ)」である。④常住、三宝に敬礼したてまつる・・・「一心敬礼常住三宝」と唱え三礼する。三宝は仏・宝・僧であるのでこれを三礼に分けて、「一心敬礼常住仏」「一心敬礼常住法」「一心敬礼常住僧」とすることも日本仏教では広く行われている。⑤如来色無尽・・・現行の如来唄は「如来妙世間、如来色一切法常住、是故我帰依」と、意味不明なので原典を探すと、聖徳太子の三経義疏の一の『勝鬘経』に「如来妙色身、世間無与等、無比不思議、是故今敬礼(如来の妙色身は、世間ともに等しからず、比べるもの無き不思議、是が故に今敬礼す)」と「如来色無尽、智慧亦復然、一切法常住、是故我帰依(如来の色は尽きる無く、智慧またまた然り、一切法は常住にして、是が故に我れ帰依す)」の二句がある。

【研究】
揚州開元寺滞在中の慈覚大師円仁は十一月二十四日の天台大師忌日が近づいたので、同寺で天台大師追善の斎会を行うことにした。同寺では天台大師会は恒例行事ではなかったからである。そのため同寺に絹四疋・綾三疋を以て寺家に送れと言われ、留学僧が絹二疋、円仁ら請益僧が綾三疋、絹三疋を差し出した。なにか現在でもありそうな話となった。