釈迦如来、お釈迦さまの話-その7-

覚者釈尊 おさとりを開いたお釈迦さまはそのさとりの内容を確認して、かつこれを世人に説き示す方法を考察するために、7週間坐禅を続けたとされます。必至で考えたのです。ここは注意しなければならないところです。お釈迦さまは坐禅でおさとりを開いたのではありません。また坐禅は無念無想、何も考えずただ坐っていろと言いますが、お釈迦さまはさとりの内容を坐禅しながら徹底的に考えたのです。またそれは単なる瞑想ではありません。もう一度画像を逆展開します。お釈迦さまは坐禅などの苦行が無駄だと分かると、一樹下に端坐して静かに人生の苦の根源を内省しました。それで宇宙人生の真理を覚ったのです。
その真理とはあとでまず簡単に述べましょう。

お釈迦さまはさとりの内容をいかにしたら多くの人々に布教できるか七週間坐禅して熟慮しましたが、その間、釈尊が発見した真理は、あまりにも深遠なものであり、俗事に溺れている世人はとても理解できないだろうからどのように考えても無駄だと考察を放棄することになりかけましたが、それでも釈尊は自分がさとった内容が人々が求めているものだと思いなおして、どうしたら人々に理解できるかと種々考えました。

実はお釈迦さまがさとった深遠な真理とは人生宇宙みな諸行無常つまりなにごとも常なものはない。万物みな変化して止まらないということです。古代ギリシアの哲学者に万物流転といった人が居ましたがそれと似ています。違いはお釈迦さまの仏教はそれが自分もそうだというところにあります。それが世の無常の本質です。それをさらにお釈迦さまは色々な形で説明しますが、それが後世に仏説の諸経典となりました。それらは一見異なっているように見えます。大別すれば自己の修行を自己のみ釈尊の指導方法に忠実に実行する上座部経典、これを独善的だと排斥する人々は小乗とさげすみました。それに対してあくまで修行は集団で行い、衆生すべての人々と心を一にして釈尊の境地に到り、他の救済を自己のさとりと同一に見なす考え方を大乗の教えとし、その理解には唯識・空観その他多くの教えがあり一見相互に異なった教説に見えます。ところがそれらのみならず小乗大乗の両者は同一、同じ真理だとする諸法実相、一乗の考え方が法華経などに見られます。

お釈迦さまは前に一緒に修行した弟子たちにまず自分のさとりの内容を話そうとしてベナレスの鹿野苑に向かいました。ここは今日サ―ルナ―トと呼ばれる土地です。そこに居た弟子たちは釈尊が修行を放棄したとして内心では軽蔑しましたが、釈尊が話を始めるとその威力に打たれて、釈尊を師と仰ぎ、洗足の水を出し、座席を用意しました。釈尊の法が説かれるにつれ、釈尊が最高のさとりを開き仏陀に成ったことを知り、彼らもまたさとりを開こうと釈尊に教えを請いました。それでかっての弟子たちは阿羅漢という聖者になったのです。

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