古典会だより-拝島大師参詣のしるべ

拝島大師は南は奥多摩街道に接し、およそ五〇〇メートル先には多摩川が西から東に流れ、『万葉集』にも詠われた「多摩の横山」が連なります。平成六年五月三日新本堂落慶以来、同年暮には水屋水天宮、平成七年十二月二日奥多摩街道に面して総門南大門が完成、親柱二本の長さ8・20メートル、径48・00センチメートル、柱間は5・40メートルあり、これに高さ60・00センチメートル、幅30・00センチメートルの大虹梁を貫き、切妻瓦屋根が乗り、親柱に付いた控え柱にも切妻屋根を渡し、組物は大仏様の通し肘木、三手先の賑やかさ。門の西に明治31年(1898)に建てられた参道整備募金芳名簿を兼ねた「元三大師」石碑のみであった参道入口に、はじめて総門南大門が立ち、大虹梁には「念彼観音力」「拝島大師」「福聚海無量」の三扁額が輝きます。南大門は高さ5・00メートル、緊急車両の通行可能を考慮したはからいです。さらに、参道には江戸・東京の大火類焼防止樹木公孫樹、大銀杏が昭和8年までの数度の拝島大火の教訓を示しています。南大門の次には「三人寄れば文殊の智慧」の文殊菩薩を祀る文殊楼をくぐり、文殊さまの智恵を授かります。例年「成人の日」には午前10時大般若経転読会、受験合格、学業成就ですが、昨今のコロナ退散も。門をくぐると、右手に上層「転法輪蔵」、下層「経蔵堂」の額がかかる経蔵堂が万巻の書物を蔵して、学問研究者の閲覧を期しています。参道左手、大師の池に面して八角円堂弁才天堂、旧本堂に江戸時代より祀ってきた弁天さんを主尊に、毘沙門天、大黒天、恵比寿、布袋尊、寿老人、福禄寿の七福神。学問諸芸上達、福徳将来を期します。弁天堂対面には平成令和建立の五重塔、「多摩の地に天平武蔵国分寺以来千二百年ぶりの木造五重塔」「東京にもある奈良京都の伽藍」です。
昭島駅南口で江戸街道を右に、二つ目の信号交差点の「太陽こども病院」の脇の南北の道が「大師通り」。緑街道、JR八高線踏切を越え南進すると、正月初縁日の頃は真っ白な雪をかぶった富士山が正面に見え、それを目印にさらに進むと富士山形をした拝島大師本堂が見えて来ます。国道16号線を渡ると堂坂です。拝島大師の境内は、堂坂から「大師の池」の西南まで「大師通り」で昭島市立拝島公園と境をなしています。「大師通り」はその先奥多摩街道拝島大師交差点に至り、それより南は市立中学や都立高校が並び、通学路・流通路としても重要な通りです。この道路は元は低い田圃の畦道で何度かに分けて盛土し整地して来ました。昭和の初め頃、大師堂・客殿など建物と水路以外の拝島大師境内地は明治頃の絵図にあるようにすべて田圃でした。その内、一反五畝、約五百坪大師から田圃を借りて小作していた地元の人が、先述の拝島大師交差点より先の道路整備用に土と砂利、掘れば出てくる玉石をすべて売ってしまい、水が貯まって池になったのが「大師の池」です。崖からの湧水、隣接する拝島公園からの水が集まる池は鯉だけでなく、フナ、ハヤ、ウグイ、ナマズなど川魚豊かな自然の池沼でした。昭和50年代二度の近所の火事の時は消防車数台がポンプで水を吸い上げ、浅くなった池で鯉が跳ねていました。その頃から附近の宅地化が急速に進み、十一月より三月までは渇水で池が干上がるようになりました。拝島大師西の堂坂は元は上川原から大師参詣の為の山道で「上川原道」と呼ばれ、後に道路として整備されました。戦後小河内ダムの移住者で賑やかになり、お祭りの屋台が狭くて通れないというので、時の拝島村長の依頼を受けた大師住職は道路幅の拡幅に同意して、境内地を提供し、狭い道路を倍の幅に拡げ、現在の「大師通り」の原型が出来ました。その経緯は平成十二年の都文化財修復の測量地図で明確に判断できます。他方、平成十年、それまで泥沼だった「大師の池」を伊豆半島小松原石で整備し、渇水対策としてコンクリート水槽を池中に造りました。さらに大師通りに面して奈良東大寺国宝転害門に倣い、「拝島大師西門転害門」を建立、次いで袖塀建設。そこで昭島市と協議して大師通りと文殊楼東西の道への大師境内地貸し地契約書を作成したのですが、袖塀・諸門はすべて正月初縁日「だるま市」の露店出店が市道に出ないように、大師境内地のみで露店出店ができるように、塀を最も狭い堂坂下桜の木の個所で1・20メートル、通常3メートル近く、最広4メートルの境内地を塀の外に、道路では無い境内地として確保してあります。

「大師通り」は大師参詣路、そして地域の学校の通学路であり、公園に隣接し、子どもたちの交通事故防止、安全を考慮して、速度制限や重量制限を規制していますが、なお飛び出し事故などを考慮して、曲がり個所を道路ではない境内地に残し、太いステンレスのポールを立て、そこに大師の参詣案内をつけて交通事故防止を図っています。
明治14年時の住職の意向で築山造営には拝島三宿の若者が総出で奉仕しました。記念碑には次の歌が詠まれています。
○我が身世に無からむ後の末までも祷(いの)るこの池は透れとぞ思ふ
拝島大師がこれまでも、今も、これからも、祈願の場たらんと願う、そのための精進、精進、努力、努力です。