慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その44-

○四月五日(続) 新羅人の多く住む宿城村①に到った。僧らが密州より当地に到った理由を問うたので、答えて言う、「新羅僧の慶元・恵溢・教恵らは便船に乗って来たりてここに到った。一両日宿住しようと思う。請うらくは、勾当し愍れみを垂れてここに留めてください」と。
ここに村老②の王良が字を書きて云うに、「和尚さまはここに到り、自ら新羅僧人と言われる。その言語をみると、新羅語ではない。また大唐語にも非ず」と。見識するところ、日本国朝貢使の船が、山東に泊し風を候つ。恐らくは和尚さんは官客であられよう。日本国の船上から逃げ来たらんか。この村は日本の官客をお泊めすることはできない。請うらくは、実のことを言われよ。妄語を言ってはいけない。只今、この村には海州から来た牒がある。かねて警備当局の押衙の使下、三、四人が居る。ここに来て捜査される。恐らくは和尚を見つけたら、禁足拘留して州衙に連行するだろう」と。ぐづぐづして思慮する間に、海州四県都遊奕使の将下の子巡軍中の張亮・張茂ら三人が弓箭を帯びて来て、どこから来たのかと問うた。円仁らはもし事実そのまま答えたら、かえって土地の新羅人に罪過ありと見なされて拘留されることを畏れ、方便を設けてやや工夫して答えていうには、「僧らは実は日本国の船上より来た。病気によってしばらく船を下り他に宿を取っている間に船が出てしまったのも覚らなかった。人を雇ってここに到った。請うらくは使者を使わして送り届けてください」と。ここに軍中らは僧の言い分を了解し、円仁らを新羅人村長の家へ連れて行った。軍中が請うにまかせ具に留住せしめる理由を記録して押衙に与えるため、円仁らに状文を作成させ提出させた。その状に言う、「日本国の朝貢使の九箇の船は東海山の東の島蔭に留まって風をうかがう。この僧らは腹病とかねて脚気とを患うにより、当月三日をもって船を下りた。従者の僧二人、行者一人があい従って船を下りた。水を求めて山裏に登り、日夜まさに治療せしめんとしたが、未だ平癒を得ていない。朝貢使の船は信風を得て昨晩出航してしまった。早朝船の所へ行ったがもはや全く見えない。絶岸に登り嘆き悲しんだ時、炭を積んだ船一隻が来た。十人が乗っている。具に事由を問い、すなわち村里を教えた。僧らは一人を雇って山裏から来り宿城村に到った。携えて来た随身の物は法被・衣服・鉢孟・銅腕・文書・澡瓶および銭七百余と笠子などである。ただ今、日本国の船の処へ往きて船に乗って帰国しようと思う。請うらくは、使人を遣わして送らせてください」と。ここに子巡軍中らさらに別状を加え、遣わして押衙都遊奕所に報じた。夜に入り、亥の時(午後十時ころ)より雷鳴洪雨がある。大風しきりに吹く。雷電の声は聞くべからず。あらき雨、悪しき風、相当たるべからず。丑の時(午前二時ころ)に及ぶころ、雷雨ならびに止む。風色の変わるあり。早朝たずね問うに、多く北風だという。

【語句説明】
①宿城村・・・山東雲台山の支脈に宿城山という山名があり、その西南山麓に今も宿城村が存続している。ただ、村は日本の町村の村(むら)とは異なり、多く地名である。②村老・・・村地域の長老、村長ではない。

【研究】
唐の開成四年(839)四月五日の記事の後半。円仁らは山東地方に留まり、宿城村という新羅人の多く居住する地域に入った。新羅人は親切でなく、警戒して地域に宿住することを拒否した。そこへ地域を治める海州の警備兵が到来し、円仁らの滞在の理由を尋ねたが、円仁らの言い分を了解して、円仁らに協力的態度になった。それでも円仁らは始終警戒して本当のことは言わなかった。ご苦心が偲ばれるところである。それにしても円仁らが出会った山東地方の新羅人の集住は問題である。当時朝鮮半島の人びとの生活は困窮を極めており、中国へ渡航して生活する人びとが多く居たのである。