慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その12-

○九月十六日、長嶺判官がいうに「得たる相公の牒に称す、請益法師が台州に向くべきの状は、遣唐大使が入京して奏聞し、報府を得たるの時に、即ち請益僧らが台州に発赴するを許すものである。未だ牒案を得ていなければなり」と。○九月十九日、恵照寺広礿法師が来て、あい見え諮談した。当寺開元寺の僧らがいうには、これは法華の座主で、慈恩疏を講ず①と。
○九月二十日、写し得た相公李徳裕牒状に称す、「日本国朝貢使数内僧円仁ら七人、台州国清寺へ往き、師を尋ぬを請う。右は奉詔の朝貢使来りて入京す。僧ら台州に発赴するは、未だ入りて允許すべからず。須らく本国の表章到るを待ち、発赴せしむべきものなり。委曲は牒文に在り。
○九月二十一日、塔寺の老僧宿の神玩和尚来り、あい看え慰問せり。
○九月二十三日、揚府の大節なり。騎馬軍二百ばかり、歩軍六百ばかり、惣計騎馬歩兵合わせて千人、事、本国の五月五日の射的の節②に当たる。
○九月二十八日、遣唐大使君常嗣が昆布十把と海松一包みを贈ってきた。
○九月二十九日、大使君、すなわち遣唐大使が砂金大十両③を贈り、求法の料に宛てる。相公は入京使のために、水館において餞別の宴を設けた。また蒙りたる大使の宣に称す、「請益法師がつとに台州に向かうの状は、得たる相公の牒に称す「大使入京の後、聞奏し、勅牒を得たる後、はじめて台州へ向わしむものなり。よりてさらに己が緘書を添え、相公に送ること先に了りぬ。昨日得たる相公の報に称す、「此事は別に奏上が前に了る。明後日を計り、報帖を得せしめ、もし勅詔を蒙れば、早く発赴せしむるものなり。聞くならく、今天子有る人のために計られて、計りて皇太子を殺す。その事の由、皇太子が父王を殺して天子と作らんとすと。よって父王おのれが子を殺すと云云。

【語句説明】
①法華の座主で、慈恩疏を講ず・・・慈恩大師窺基(六三二~六八二)著「妙法蓮華経玄賛」十巻。これは円仁の後に円珍が初めて日本に将来。
②本国の五月五日の射的の節・・・日本国の五月五日端午の節に尚武のため騎射の行事を催したのと式典が似ている。
③砂金大十両・・・大一斤は六七五グラム、一斤は十六両、したがって砂金大十両は約四百グラム程度。

【研究】円仁一行が天台山へ向う許可が唐側から下りない。日本国遣唐使を朝貢使と唐側がいうのも大きな外交上の溝がある。ここで唐側が天子というのも見逃せない。朝貢国四夷国に対して唐帝国皇帝は天子と称したのである。ただ、右行記の末に円仁はとんでもない唐宮廷の事件の情報を聞いた。天子が皇太子を殺したと書く。それを円仁は父王が子を殺したと書く。朝貢国と言われた日本外交のやり返しである。

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