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釈迦如来、お釈迦さまの話-その25-

釈迦三尊 お釈迦さまは単独で祀られるより、左右に文殊・普賢の両菩薩を従えた釈迦三尊の形式が多いのです。お釈迦様だけでなく、日光・月光の両菩薩の薬師三尊、観音・勢至の両菩薩を従えた阿弥陀三尊、弥陀三尊など顕教の仏像は三尊形式がはっきりしています。 続きを読む

慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その42-

○三月二十九日、平明①に(午前四時ころ)、九隻の船は帆を懸けて発ち行き、卯(午前六時ころ)の後、淮河河口より出て海口に至り、北を指して直行した。客を送る軍将②は波高きに縁り、相随うことをしなかった。水手の稻益は便船に駕して海州に向け去った。東と南の両方角を望見すると、大海は黒く幽遠である。始めは西北より、山と島が相連なり、即ちこれは海州管内の東の極である。申の時(午後四時ころ)、海州管内東海県の東海山③の東辺に到り、澳(みなと)に入り停泊する。澳より東方近くに胡洪島がある。南風しきりに吹き、揺り動くこと比類がない。その東海山は本当に高石重巌、海に向かって険峻、松樹は麗美、はなはだ愛怜である。愛怜は珍重愛すべきであるの意味。山頭より陸路にて東海県に到る距離は百里である。一里500メートルとして5万メートル、50キロメートルである。
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古典会だより お彼岸

三月二十日ごろの春分、九月二十二日ごろの秋分の日は、多少のズレはあるものの、昼と夜の長さが全く同じで、その日太陽は真東から昇って真西に沈むというのです。太古より人類は太陽と月や星の動きに注目し、観察し、関連づけ、知識や智恵を得て来ました。
紀元前2、3世紀の前漢時代の書物『周礼』に「天子は常に春分には日を朝し(太陽をまつり)、秋分には月を夕す(月をまつる)」とあります。春分は冬至から少しずつ勢いを増した太陽が、より一層強くなり、農作物が順調に育ち、生物が繁茂して行くのを願い、秋分は夏至を経て成熟から収穫への予祝を夜長の月に願ったのでしよう。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があります。日と月、陽と陰、昼と夜、夏と冬など、相対して考えるのではなく、緩衝点、いわばクッション点となっており、春分・秋分を中日(なかび)として、前後三日間を考えた七日間が彼岸ということになりますが、それは仏教思想に由来してのことです。
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漢字講座・第37 南(なん・みなみ)

現在、コロナウィルスによる新型肺炎大流行の拡大を抑えるために世界中で東西南北の人の移動が制限されています。逆に流行伝播は方角があるので自分の位置から方角を正しく考えることが大事になります。そこで方位を意味する東西南北の漢字を考えることにします。 続きを読む

釈迦如来、お釈迦さまの話-その24-

施無畏・与願の印 お釈迦さまの信仰は仏教の基本ですが、その仏像としてまず注目すべきはその結ぶ印の形と意味です。左手を下に向け、親指、人差し指、中指を真っ直ぐ立てて下に向け、薬指と小指を丸めます、説法を聞く衆生に畏れなくてよいというジェスチャーで、施無畏の印と呼びます。或る面では釈尊の説法の根本とも言えるのです。
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慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その41-

○三月二十五日、卯の時(午前六時ころ)、出発。風は正西より吹く。淮河の流れに乗って東行した。未の時(午後二時ころ)、徐州①の管内の漣水県②の南に到り、淮河中に停留した。風色は変らざれども、第一船③の新羅水手及び梢工④ら船を下りて未だ来らざるによりて諸船はこれが為に拘留し、進発を得ず。夜を通じて、信風⑤変らず。
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古典会だより お盆さん

西暦720年編纂の『日本書紀』巻二十二、推古天皇十四年(606)の夏四月の乙酉の朔壬辰に、「銅・繍の丈六(約4・8メートル)の仏像、並に造りまつりおわりぬ。是の日に、丈六の銅の像を元興寺の金堂に坐せしむ・・・是年より初めて寺に、四月の八日、七月の十五日に設斎す」とあります。四月の八日は釈尊の誕生会、灌仏会のはじめ、七月の十五日は盂蘭盆会ですが、元は夏安居の日、衆僧を供養する儀式でした。その後祖先の霊に供え餓鬼に施す法会になりました。 続きを読む