慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その1-

はじめに
慈覚大師円仁「入唐求法巡礼行記」は、その概略を本誌『如意輪』の「元三大師のお話し」で紹介したことがある。しかし、最近各方面から「入唐求法巡礼行記」が取り上げられ、その中には著しく事実を誤り、それが慈覚大師御自身のお気持ちを全く理解していない説明が行われていることを眼にするにつけ、それは大師讃仰とは全く逆、大師の壮挙の価値を無にする由々しき事態であると思い、慈覚大師円仁讃仰の気持ちから「入唐求法巡礼行記」研究というべきその詳細な紹介を企図した次第である。研究は二部構成でまず、第一部では「入唐求法巡礼行記」の忠実な現代語翻訳・訳註、第二部で慈覚大師円仁の仏教とその時代ということにしたい。大方の御批判を願うところである。

『入唐求法巡礼行記』巻一
承和五年(八三八)六月十三日、午の時(昼の十二時)、第一・第四両舶遣唐使は舶に駕る。順風が無く、(那津に)停宿すること三箇日。

十七日、夜半、嵐風を得、帆を上げ、櫨を揺かして行く。巳の時(午前十時)、志賀島の東海に到る。信風(西へ向かう貿易風)が無いために五箇日のあいだ志賀島に停宿した。

二十二日、卯の時(午前六時)、艮風(北東から南西へ吹く風)を得て進発できた。さらに澳(寄港地)を求めず、夜をついて暗みを行く。

二十三日、巳の時(午前十時)、有救島(五島の宇久島)に到る。東北の風が吹き,行く者留まる者別れを惜しむ。夜に入り暗みに行く。両舶の火信あい通ず(灯りをたよりとしての連絡が取れた)。

二十四日、第四舶が前を往くのを望見した。円仁が駕る第一舶との距離は三十里ばかり(十五㎞、ただし海上里程の実数は不明)、遙かに西方を往く。遣唐大使は始めて観音菩薩像を画いた。請益・留学の法師らは、あい共に読経し誓願祈願した。亥の時(夜十時)、両舶の火信あい通ず。その灯りは星の灯りのようだ。暁になると見えなくなった。艮巽の風(北東の風と南東の風)に変化が有ると雖も、漂流の驚きは無い。大竹・蘆根・烏賊(いか)・貝など、おお波に漂い流れる。釣りを下して取って看るに、或いは生き或いは枯れている。海の色は浅緑色、人びとは陸地が近いという。申の時(午後四時)、大魚が船に随い遊行する。

二十七日、平鉄が波に衝かれて、悉く脱落した。疲れた鳥が船を頼って泊まり飛び立たない。それでも二三の鳥は西へ飛んだがすぐに帰還する。それを何度も何度も繰り返す。海の色は白緑色。夜もすがら帆柱に登り、陸地の山や島を見ようとした。ことごとく「見えない」という。

二十八日、早朝、鷺鳥が西北を指して二羽飛び立った。風はなお変らないようだ。帆を側だてて坤(西南)を指す。巳の時(午前十時)、白水洋に至る。その色は黄泥のようだ。人びとは皆いう、これは揚子大江の流水であると、人を帆柱に高く登らせて見せた。それが申すには、「いぬいのところより南方に直流している。その寛さは二十余里(十㎞)。前方を望見すると、海水はまた浅緑色。暫く行くも変わることなく、終に先の見張りがいうごとくであった。遣唐大使は海の色がまだ浅緑色であるのを深く怪しんだ。新羅人の通訳金正南が申していうには、「聞くならく揚州の掘港は横切るのが難しいと。今すでに白水洋を越えた。疑うらくは掘港も越えたか」と。未の時(午後二時)、海水はやはり白い。人びとはみな怪しんだ。帆柱に登らせて陸島を遠望させたが、なお見えないという。風の吹き方は変わらない。海は浅く波は高く、衝鳴すること雷のようだ。縄をもって鉄を結び、これを海中に沈めてみると、わずかに五丈(十五メ-トル)。すこし経って鉄を下し、海の浅深を試験したら、わずかに五尋(七・五メ-トル)。遣唐大使は危惧した。ある者はいう、「すぐに碇石を下して停るのがよい。明日また往こう」と。別のある者はいう、「須べからく半ば帆を下し、小艇を馳せ、前途の浅深を知ってから、はじめてだんだんと進行するのがよい」と。停留の説は妥当しない。相談は酉戌(午後六時から八時)に及んだ。この時に東風がしきりに扇ぎ、波濤が高く猛しい。船舶は卒然として海渚に趨り昇る。驚きながら帆を落とした。柁角の砕け折れること両度。東西の波が互いに衝き舶を傾け、柁葉は海底に着き、舶の柁はまさに破れんばかり。柁を截り海に棄てた。舶は波濤に随って漂蕩し、東から波が来れば、船は西へ傾き、西から波が来れば、船は東へ側つ。波水が船上を何度も洗い流す。船上の人びとはただひたすら仏神の加護を頼むだけ。対策は浮かばない。遣唐大使より水手船頭に至るまで、すべて裸身で褌を締め直した。船は座礁して動かない。そこで艀の櫨軸に趨走して、なんとか命だけは助かろうと思う。大波に衝かれ、みなすべて脱落した。左右の高欄の端に縄を結び牽引し、競って活路を求めた。淦水(泥水)が船中に充満してきた。船中の官私の種々な物品は泥水に随って浮沈している。  二十九日、暁、潮が涸れ、泥水もようやく竭きた。人に底を見せたが、悉く破裂し、沙に埋った搙栿(鋤状農具)のようだ。衆人は相談して、今舶はすでに破裂している。もし再度潮汐が生じたら、恐らくは砕け散ってしまうと。そこで帆柱を倒し、左右の櫨棚を截り落とした。舶の四方に棹を建て、纜を搙栿に結んだ。亥の時(午後十時)、西方を望見するに、遙かに火光が有るのが見える。これに対して忻悦しない者は居ない。夜通し瞻望しても、山島は見えない。ただ火光が看えるのみ。

七月二日、早朝、潮が生じた。進み往くこと数百町、西方に島が見える。その形は双舶が並ぶようだ。ちょっと進むと、ようやく陸地だと分かる。少し漂流して行くと、二本の潮が回流するに逢い、横流すること十余町、船は泥に沈澱して、進まず退かず。潮水は強くほとばしり、舶辺の泥を掘りえぐる。泥が逆流、船体は傾き、ほとんど埋もれようとする。人びとは驚き懼れ、競って船側に寄り、各々帯や褌を締め、諸処に縄を結び、繋いで死を待つばかり。舶は左に覆り、人びとは右側に遷った。覆るに随って処を遷すこと数度に及ぶ。船底の二重底の布は流れている。人びとはたまげて泣き出すばかり、そこで極楽往生を発願する。戌亥の角に当たり、はるかに浮遊物を見る。そこへ唐人が数人現れた。

【研究】『続日本後記』巻七、承和五年七月庚申五日の条に、「大宰府奏す、遣唐使第一・第四舶進発せり」とあるが、これは九州大宰府から京都の朝廷に遣唐使出発の報告があった日付けを記したものである。円仁「入唐求法巡礼行記」巻一では承和五年(八三八)六月十三日に第一・第四船が出港した。なお、今回の遣唐使船は二年前の承和三年(八三六)五月十四日に大阪の難波津を出港した。丸二年で九州に来るまでに第三船は難破した。第二船は後れて出航という。承和の遣唐使は事実上最後となった。遣唐大使藤原常嗣、宗祖最澄の遣唐使藤原葛野麻呂の子息である。円仁は第一舶に駕る。中国大陸に難破船さながら着いたのが翌月七月二日、円仁の日記の筆は具体的である。中国大陸沿岸近くで船と乗員は大変な状態、円仁のその後の労苦を暗示するようだ。以下次号