西暦720年編纂の『日本書紀』巻二十二、推古天皇十四年(606)の夏四月の乙酉の朔壬辰に、「銅・繍の丈六(約4・8メートル)の仏像、並に造りまつりおわりぬ。是の日に、丈六の銅の像を元興寺の金堂に坐せしむ・・・是年より初めて寺に、四月の八日、七月の十五日に設斎す」とあります。四月の八日は釈尊の誕生会、灌仏会のはじめ、七月の十五日は盂蘭盆会ですが、元は夏安居の日、衆僧を供養する儀式でした。その後祖先の霊に供え餓鬼に施す法会になりました。ついで、同書巻二十六、斉明天皇三年(657)の秋七月の丁亥の朔辛丑十五日に、「須弥山の像を飛鳥寺の西に作る。且つ盂蘭盆会設く」とあり、盂蘭盆会の法要が述べられ、同じ斉明天皇五年(659)七月庚寅十五日に、「群臣に詔して、京内の諸寺に、盂蘭盆経をとかしめて、七世の父母に報いしむ」とあります。七世の父母への供養が述べられ、次に同書巻二十九、天武天皇十四年(685)の三月壬申二十七日に、「詔したまく、『諸国に、家毎に、仏舎を作りて、すなわち仏像及び経を置きて、礼拝供養せよ』とのたまふ」とあり、仏壇を作り礼拝供養すべしと述べられています。さらに『続日本紀』巻十一、聖武天皇の天平五年(733)秋七月庚午六日に、「始めて大膳をして盂蘭盆の供養を備へしむ」とあり、諸寺の盂蘭盆会の供物の調達はできるだけ良い物をと考えて、朝廷の食膳担当の大膳職にはじめて担当させたというのです。
△近年考古学の発展はめざましく、沖縄県では石垣市の白保竿根田原洞窟遺跡から約2万4000~1万6000年前の旧石器時代の葬送の地が想定され、千葉県千葉市の特別史跡加曽利貝塚では、縄文時代中期から晩期(約3000年前)にかけての集落遺跡において、人と共に協働で生きた犬も丁寧に葬られていたそうです。たゆまざる努力による新たな発見と考察、着実な学問の展開と進歩には驚くばかりです。太古の昔から、人は生まれて生きて死んで来たのですが、日本では可能な限り、死者を丁寧に葬り、追憶の時を定めて、その後も共に生きて来ました。死は決して断絶でなく、生き残された者の思いがある限り、常によみがえり、不思議と力を与えてくれるものなのでしょう。生ける者は日々事にまみれ、忙しとて、折りにふれての思いにふける間も惜しみがちです。自分一人今生きてあるのを考えるに、兄弟姉妹は入れず、両親そのまた両親と直系だけを数え、七世代までおよそ200年として、その間に少なくとも254人の生命がかかわって来ています。更にはその人たちにゆかりの人達を有縁無縁の霊位と考え、過去、現在、未来、つまり先祖、自分、子孫の三界万霊にまで思いをいたし供養をする。とりわけ生命の源たる飲食不能に苦しむ餓鬼に施しを行ない、冥福を祈る時がお盆で、一年365日のうちの特別な4日間です。
△盆と正月は一年を半分に分かちます。正月は今年一年への思いを新たにし、盆は半年経ってみての反省で、現前の事だけでなく、物事の由来と原因理由などを深く考え、いささかでも喜びを見いだし、残り半年への活力と知恵を期する時で、先祖たる七世の父母と現在の父母、或いは身近の親しかった亡き人達への思いをいたし各家の仏壇とお墓、寺がよりどころとなります。ただし、いずれも生き残こされた人にとっての生きる守りであり力であってもらいたいものです。
○ふた親と二三日くらすお盆様 高木鬼三太
○うら盆や疎きぞわぶる友の墓 俳諧新類題発句集
○迎火にしばし夕日のあたりけり 鵬子
○数ならぬ身とな おもひそ玉まつり 芭蕉
○家はみな杖にしらがの墓参り 芭蕉
○あぢきなや蚊帳の裾ふむ魂祭 蕪村
○おれが座もどこぞに頼む仏達 一茶
○夏たけて堀のはちすの花見つつ仏の教へ思ふ朝かな 昭和天皇
○なき人の此世に帰る面影のあはれふみ行く秋のともしび 新続古今
○お盆の御飯ふっくら炊けた 種田山頭火
○トマトを掌にみほとけの前に ちちははのまへに 〃
○うどん供えて母よ わたくしもいただきまする 〃
◇◇拝島大師本覚院施餓鬼会◇◇
七月十五日午前十一時
於本覚院客殿