慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その41-

○三月二十五日、卯の時(午前六時ころ)、出発。風は正西より吹く。淮河の流れに乗って東行した。未の時(午後二時ころ)、徐州①の管内の漣水県②の南に到り、淮河中に停留した。風色は変らざれども、第一船③の新羅水手及び梢工④ら船を下りて未だ来らざるによりて諸船はこれが為に拘留し、進発を得ず。夜を通じて、信風⑤変らず。
○三月二十六日、早朝、風が西南に変じた。太鼓を打って出発して行く。潮は逆い風は横殴り、暫く行き即ち停る。午後また発つ。未の時、第一船、第三船以下八箇の船、淮河から港⑥という支流の流れに入り、橋籠鎮⑦の前に到って停住した。第二船は支流の流れに入らず、淮河本流を直行した。当鎮の西南、淮河中に停住した。余の諸船を去ること、五、六里、約3キロメ-トルばかり。風は東南から吹く。夜になってやや正東に変わった。海口より一船が来たので、どこから来たか尋ねると、船人は答えていう、「海州⑧より来る。日本国の第二船は今月の二十四日に海州を出て東海県⑨に到った。昨日見たがまだ出発してなかった」と。子の時(夜半午前零時)、第一船が太鼓を打って出発して行くのを聞いて、即、直ちに第二船も碇を上げて、前に去った。
○三月二十七日、卯の時、淮河河口から七〇余里、約35キロメ-トルのところ、逆潮が出て暫く停止。余船は後から追い掛けて来る。風は西南から吹く。大勢が言うのには、淮河が蛇行し風向きは変化する。最近の風は西より吹く。巳の時(午前十時ころ)、出発した。正午に東北の風が吹く。未だ淮河海口には二〇余里も手前である。碇を投げて停住した。暮れ際、艮、東北の風が吹き、雷雨になった。
○三月二十八日、天気は晴、巳の時、順風を得んがために、住吉大神を祭る。午後、風は東南に変わり、夜になると風は西南になった。

【語句説明】
①徐州・・・山東半島南部の江蘇省最北部。淮河流域である。②漣水県・・・徐州所属ではなく、唐では楚州、淮安に属した。③第一船・・・遣唐大使が乗る。④梢工・・・舵取り。⑤信風・・・季節風、日本から中国へ渡航する船の風は東、ないし東北風。東風は菅原道真は「こち」と呼び、万葉時代の越中守大伴家持は「あゆの風」と呼ぶ。円仁の場合は唐からの帰国船の風、西風である。⑥港・・・大河の支流。日本の船の着く「みなと」ではない。⑦橋籠鎮・・・所在不明。ただ特定な地名か否かも不詳。⑧海州・・・楚州の海浜地帯。⑨東海県・・・楚州の海浜地帯。

【研究】
唐の開成四年(839)三月二十五日から二十八日の連日の記事、山東半島南方の淮河流域で風向きの変化に苦労している。なかなか思うとおりに進まない。