古典会だより 七夕(たなばた)・お施餓鬼(せがき)・お盆(ぼん)さま

七月七日は七夕の節句、後漢の2世紀ごろより、牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の二星に見立てられ、六朝の5、6世紀ごろより、年に一度の逢瀬の話となり、宮中では乞巧奠(きつこうでん)の節会として、山海の産物を供え、天皇の星合御覧・詩歌・管弦が行われました。

聖徳太子の十七条憲法の十六条に、「民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)春より秋に至るは、農桑の節なり。それ農せずは何をか食わむ。桑せずは何をか服(き)む。」とあり、牽牛(農耕=農業)と織女(機織り=工業)は生活の一大基盤でした。『漢書』五行志に「民を使うに時を以てす。務めは農桑を勧むるにあり」とあります。『古事記』で天照大神は日本を「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきのながいほあきのみづほのくに)」とよび、千年も五百年も長久に稲穂のみのる国としています。農は国の本のゆえんでもあり、国土の自然環境の重大要因です。七夕星は農業と工業の一致の願いです。今も皇居では天皇のお田植え、皇后の養蚕の伝統が生きています。

一方『嬉遊笑覧』には「江戸にて近頃(文政2、3年1819・20ごろ)より七夕の短冊作り、篠竹に種々の物を色紙で作って吊す」のが大流行とあります。七日の朝、里芋の葉の上の露を集め、前日に洗っておいた硯で墨をすり、書道・裁縫その他技芸諸事全般上達の願いを書いて竹に吊し、翌朝流し去るようになり、今に続いています。

また、七夕は盆の一部で精霊迎えのため、清掃をし衣類の虫干をし、井戸さらえの清掃をしました。インドで雨期三カ月間の修行(夏安居)後の僧侶への接待と、特に鎌倉時代以降の亡魂への追善供養が相俟って施餓鬼会が盛んになり、仏壇のほかに施餓鬼棚を設けましたが、七日は仏具を洗い、仏壇・お墓そうじ、盆道つくりのはじまりでした。ご先祖さまなど有縁の霊位だけでなく、無縁の霊位も弔って供物を供え、有縁・無縁の三界万霊の供養をするのが仏教のお施餓鬼供養の一大特長でしょう。お盆さまは盂蘭盆会(うらぼんえ)とも言い、現在・過去七世の父母の供養と言われます。人一人、今あるのを考えるに、両親、そのまた各々の両親とたどって行くと、七世では254人の人の生命がかかわって来ているのです。江戸時代天保9年(1838)『東都歳時記』注の『絵本江戸風俗往来』に記します。

真宗の一派を除き、その他の檀家なるは、武家町家何業の別なく魂棚を飾り、先祖累代の精霊を始め、有縁の霊はなおさら、無縁のやからに至るまでの供養を営むこと、貧富の別なく、家あるやからは一般とす。なかんずく、身柄ある武家、筋目正しき町家においては、魂迎とて十三日の夕刻より各自の檀那寺に行き、墓前へ灯火を奉り、礼拝をなし、生けるを迎え参らすが如く、家々の家紋つきたる弓張提灯を点じて路上を照らしつつ迎へける。

御迎火は十三日の日暮れに武家・町家の別なく、諸大名及び禄高多き旗本方を除くの外、毎戸必ず焚きて霊魂を迎うという。武家は門を押し開き、玄関より間毎に麻上下を着して相詰め、その厳然たること、あたかも生ける人の来臨し給うに同じ。町家は前もって家内を清め、武家と同じく魂棚を構え、番頭・手代・小僧ある家にては、皆店に居並び、家族打ち揃い、戸外に芋がらを積み、火を移すや鉦打ち鳴らし、称名を唱え、火焚き終わるや霊魂を棚の許へ案内なす。式、実に信実に行う。これまた帷子(かたびら)・薄羽織(うすはおり)を着したり。この御迎火、隣家向う前とも同時に焚く。
されば当日、内外とも賑わうこと夥(おびただ)しかりし。この以前より、盆使進物の贈答あり。武家は刺鯖(さしさば)の進物、町家は麺類を進物とす。

供物は飯、米粉の団子、李(すもも)・杏(あんず)・棗(なつめ)・桃・栗の五果、野菜など百味。特に飯と団子は蓮の葉に盛ります。蓮の葉は表面に細毛がびっしり生えており、ひんやり冷たく天然の冷蔵です。十三日の迎えは夕方早めに、十六日の送りは夕方名残り惜しんで遅目にの心づかいもあります。

年に一度、有縁・無縁の霊を迎え入れて共に生きて来たのが日本人の伝統的智慧と言えましょう。

なき人の此世に帰る面影のあはれふみ行く秋のともしび(新続古今)
夏たけて堀のはちすの花見つつ仏のをしへ思ふ朝かな(昭和天皇)
なき人をしのぶる事もいつまでぞ今日のあはれは明日の我が身ぞ(新古今)
盆近し仏のことはまかされず(中村若沙)
迎火にしばし夕日のあたりけり(鈴木鵬子)
ふた親と二三日くらすお盆様(高木鬼三太)

tomato
***種田山頭火の作***
お盆の御飯ふっくら炊けた
うちのようなよそのようなお盆の月夜
うどん供えて母よ わたくしもいただきまする
トマトを掌にみほとけの前に ちちははのまへに