十日、辰の時(午前八時)、請益・留学の両僧が随身携帯物などの斤量の数を記録して、節度使役所に提出した。そこで第二船が海州に着いたのを聞いた。乗船の新羅訳語朴正長が揚州金正南の房に書信を送ってきた。午の時(正午十二時)、昨日の勾当日本国使王友真が来て、言うには、節度使李徳裕は遣唐使一行到着報告を朝廷に奏上している。今朝廷からの勅書の渡来を待っている。それで台州へ出発することができる。王大使はさらに留学僧をとりあえず揚府①に住せしめ、請益僧の円仁らは、勅書の到来を待たず、台州へ行かせようとして節度使李徳裕に文書を送った。二、三日経って節度使から返事が来た。すぐ出発は不可だ。台州行きを許す皇帝の勅書が必要だという返事である。ただし、その間は開元寺に住してよい。船師佐伯金成は疫痢を患って数日経った。
次の記事はそれから六日後の八月十六日である。辰の時、円仁・円載の二人の僧は船師佐伯金成に無常咒願を与えた。すなわち『大般涅槃経』の「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(諸の行は常ではない、これが生滅の法である。生滅が滅しおわって、寂かに滅するのを楽とする)」の無常の偈である。ただ、この時未だ金成は命が終わっていない。でも臨終間際、唐側の遣唐使担当官は金成の所持品の物を調べた。翌日、十七日夜に入り丑の時(午前二時)病者金成は死亡した。
十七日の申の時(午後四時)、第四船判官が如皐鎮に到着し、公私の種々の物を悉く鎮に運び、今小船に載せ揚州府へ出発した報告があった。
二十二日、王友真大使が節度使李徳裕の文書をもって来た。文書にいうには、円仁ら二人の僧と従者は開元寺に住せしめよとあった。
二十三日、節度使李徳裕の牒を受けた開元寺三綱から円仁ら二人の僧と従者が開元寺に住することを許可する書類を王友真大使が持参した。
二十四日辰の時、第四船の判官以下が小船に乗って官店に来た。船数は三〇隻はない。斎(会食)の後、開元寺に使者を派遣して客房を検校させた。未の時(午後二時)、円仁らは従者とともに官店を出て開元寺に向かった。寺の裏に到り、東塔の北から二壁を越え、第三廊の中間の房に住した。その時、三綱ならびに寺の和上及び監寺僧らの所に赴いた。上座僧志強、寺主令徽、都師(都維那)修達、監寺方起、庫司令端ら開元寺の幹部僧侶が総出で円仁らの旅の疲れを慰問した。随身従者たちも案内されて同寺中に荷物を運んだ。
【語句説明】
①揚府・・・揚州は重要な外交・海港都市だから、通常の唐の地方行政区画である州に政府機能の府が付いた。
【研究】
本節の記事から唐の揚州に遣唐使や請益・留学の両僧らが到着した時の入国管理行政機関の諸手続きが理解される。注目されるのは、唐側に日本から到着した遣唐使の入国管理を専門に担当する大使の官があり、名は王友真とのこと。そして、遣唐使一行中の僧侶は遣唐使ら日本側役人らとは別に開元寺という仏寺にいったん逗留することになっていた。僧侶は僧侶同士が勤行や食事の点で便利であった。円仁らは文字通り寝食を共にして入唐求法の成果を挙げたのである。
以下次号