慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その11-

○承和五年・唐開成三年(八三八)九月一日、異事無し。開元寺の西より河①を渉れば、無量義寺②が有る。老僧が有り、名は文襲、春秋七十、新たに維摩経記五巻を作る。今、老僧は堂裏でその疏記を講じている。多く僧肇・道生・道融、及び天台大師智顗禅師らの義記を用いている。近寺の諸僧が集まって来てこれを聴聞する。聴衆はすべて三十八人、文襲和尚を敬って尊重している。
○二日、開元寺監寺僧の方起らが庫裡において空飯③を設けた。
○九日、李相公が遣唐大使のために大餞④を設けた。大使は出席しなかったが、判官以下が全員赴集した。大使の不参加の理由は不明である。
○十一日、聞くに副使は来ていない。日本本国に留まったままだ。この副使は小野篁であるが『続日本後記』巻七に「副使小野。代わりに判官藤原豊並が船頭として来ている」と。
○十三日、聞くに、相公李徳裕が朝廷に出した奏状の返事の文書が揚府に来たという。未だ内容の詳細は不明である。斎食の後、監軍院⑤の要籍⑥董十三郎が来て揚州の行政規模の数字を語った。それによると、揚州節度使は七州⑦を領し、揚州・楚州・廬州・寿州・滁州・和州である。揚州は七県⑧があり、江陽県・天長県・六合県・高郵県・海陵県・揚子県である。今この開元寺は江陽県管内である。城郭都市の都城である揚府は南北十一里(五・五キロメ-トル)、東西七里(三・五キロメ-トル)、周囲四十里(二十キロメ-トル)である。開元寺の正北に揚府がある。揚府から北三千里(千五百キロメ-トル)に唐都長安がある。

【語句説明】
①河・・・大運河。
②無量義寺・・・不明。
③空飯と④大餞・・・前者は毎日の通常の食事、後者は特別な宴会であろう。
⑤監軍院・・・節度使配下の監軍使の衙院であり、武官幕営である。
⑥要籍・・・節度使配下の武官付属の文官官吏。
⑦七州・・・舒州が落ちている。
⑧七県・・・江都県が落ちている。

【研究】
九月十一日の記事末尾で「副使は来ていない。日本本国に留まったままだ」とあり、副使は小野篁であるが『続日本後記』巻七に「副使小野朝臣篁病に依りて進発す能はず」とある。篁は国命に背き死罪に成るところ、一等減じて遠流、隠岐島に流された。後に上皇崩御による特赦で本官本爵に復した。彼は学者・歌人で知られる。

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