慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その10-

○承和五年・唐開成三年(八三八)八月二十六日、李相公(節度使李徳裕)配下の遊撃将軍沈弁が来て諮問した。沈弁は使者に蜂蜜一瓶①を送らせてきた。請益法師、すなわち円仁は開元寺僧百人を供養、すなわち食事を提供することになった。寺の僧の数は一百僧、そこで円仁ら求法僧は沙金二両を設供料として出し、留学僧もまた二両を出し、総計して金小四両②を寺の役所に送った。綱維・監寺という寺の役職が集まって算定すると大一両二分半という。ただちに開元寺に報告し、須く金数を具し、さらに節度使の役所に報じて主決済処分して空飯を準備することになった。その公文書は次である。

沙金小四両
右は求法僧ら、万里を免るるを得て、再び生きる日を見たり。しばらく寺裏に住して泉樹の因を結ばんとす。謹みて件の沙金を献じ、以て香積の供に替う。伏して願わくは弁作の労を加え、用って寺裏の衆僧の空飯に宛てん。但し期は明日に在り
○二十九日、円仁らは揚州開元寺内の百人の僧侶と会食し、大いに満足された。開元寺僧常簡が綱維の要請により斎文を作成したが、その書は十一月二十四日条に別に在る。
○三十日、長安千福寺③僧行端が来た。筆言で円仁らに渡海の労に対する慰問を述べ。兼ねて唐都長安の消息を述べた。

【語句説明】
①蜂蜜一瓶・・・蜂蜜は当時日本では知られてはいたが、珍奇であった。蜜蜂自体は日本には日本蜜蜂が居り、自然界には草木の蜜は存在する。ただ蜜蜂を人工的に飼育して蜜を採集する方法は日本では開発されていなかったらしい。
②金小四両・・・唐代の度量衡は大小二種が行われ、秤目の場合、貴重品は小両を用いるのが一般的であった。なお、中国古代の秦漢時代では二十四銖一両であったが、隋唐では十銭が一両とし、奈良平安の日本もこれに拠った。正倉院宝物の墨書記録に遺例があり、それによれば小一両は四匁弱、一五グラム弱である。四両で約一六匁弱、六〇グラム弱となる。試しに今日金一グラム二千円とすると、六〇グラムで一二万円となる。百人の食事とすると、一人一二〇〇円、なんとなく今日でもありそうな金額である。
③長安千福寺・・・唐の長安皇城西、朱雀西街第四街安定坊の東南隅に在り、もと高宗第六子章懐太子(六五一~八四)の邸宅であったが、捨宅されて仏寺となった。唐玄宗の天宝元年(七四二)楚金禅師が多宝塔の建立に着手し、朝廷では銭五十万貫、絹千匹を施入してこれを助け、四カ年を費やして完成した。唐代随一の書家顔真卿の大唐西京千福寺多宝塔感応碑は余りにも有名である。唐代では長安における天台宗の拠点だった。

【研究】承和五年・唐開成三年(八三八)八月二十六日、唐側は蜂蜜一瓶の贈答など珍奇な物産を円仁らに与えて歓迎した。唐側は食事料として金小四両を差し出すことを要求し、円仁らはこれを認めて同寺事務当局並びに節度使役所の手続きが取られる。両者とも昔も今も変わらぬ中国人の日本人接待とその見返りの要求である。同月二十九日、円仁らは揚州開元寺内の百人の僧侶と会食し、大いに満足された。開元寺僧常簡が綱維の要請により斎文を作成したが、その書は十一月二十四日条に別に在る。同月三十日、長安千福寺僧行端が来た。筆言で円仁らに渡海の労に対する慰問を述べ。兼ねて唐都長安の消息を述べた。円仁らはこれは必要な情報であった。

以下次号