慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その19-

○十一月七日、開元寺の僧貞順は私に破れ釜を以て商人に売与し、現に十斤有つ。その商人は鉄を得て出て行きましたが、寺門裏に於いて巡検人に逢い、検査されて帰って来ました。
巡検五人①来りて、「近ごろ、節度使李徳裕は断鉄②して鉄を売買させないのに、どうしてかってに売買するのか」と云いました。貞順が答えて云うには、「未だ断鉄を知らなかったので、売買しました」と。そこで当寺責任者の勾頭並びに貞順は具さに状して処分を請いましたので、お役人は咎めを免除しました。これから自と揚州管内で鉄を売買することは許されないことが分かりました。斎(朝食)後、相公李徳裕衙前(配下)の虞侯(護衛)三人が特に来て面会しまし、筆言にて情を通じたのです。相公はこの月の三日より当寺の瑞像閣上に三尺の白檀釈迦仏像を刻造したのですが、その瑞像飛閣というのは、隋煬帝の代に栴檀釈迦像四躯が西天より閣上に飛来したから付けられた閣名です。よって隋煬帝は「瑞像飛閣」四字を自書して、以て楼前に懸けました。

○十一月八日、斎(朝食)の前、相公李徳裕が開元寺内に入り来ました。礼仏の後、堂前の砌(軒下)上において、請益僧円仁と留学僧を呼んで相見しました。安穏か否かを問うたのですが、相公の前後左右あい随う歩軍は計二百名が来ていました。虞侯の人、文官は四十余人でした。門頭騎馬軍の馬は八十疋ばかりです。みな紫衣を着ています。さらに随きしたがう文官らは、すべて水色を着て、各々騎馬ですが、にわかには記すことはできません。相公李徳裕は看僧の事を畢(終)えると、そのまま寺内に入り、大椅子の上に蹲踞したまま、担がれて出てゆきました。相公はまた持参した百斛(石)の米を喜捨して開元寺の修理の料にあてさせました。

【語句説明】
①巡検五人・・・巡検之人の写し誤りの可能性あり。巡検は警察官で、官吏末端である。
②断鉄・・・鉄の流通、売買の禁令。

【研究】
開元寺の僧貞順は開成三年(八三八)十月二十四日の条と十一月七日、さらに前掲部では七月三十日、慈覚大師円仁が揚州到着まもない頃に開元寺の僧として出迎え、円仁一行を慰問している。その時、貞順と日本側は筆書して問うとある。さらに十月九日条には惟皎らの三衣(五条、七条、大衣二十五条、費用一貫七百文)を作らせた時、開元寺僧貞順をしてこの事を勾当せしむとある。以上から開元寺の僧貞順は円仁一行の揚州滞在中の必要物資の購入調達などを手がける担当僧であった。寺所有物の古釜を商人に売与したところ官憲に発見されて咎められた。本人が「未だ断を知らず、売買せり」と状書を出して免がれたというが、やや不自然である。十一月七日の文末に相公節度使李徳裕がこの月の三日当寺の瑞像閣上に三尺の白檀釈迦仏像を刻造したこと、この瑞像飛閣は隋煬帝代に栴檀釈迦像四躯が西天より閣上に飛来した奇瑞を記す。ここで当揚州は隋煬帝が皇太子時代に滞在した縁の地で、他地方では評判の悪い煬帝も当地では親しまれ尊敬されていたことが分かる。因みに煬帝は天台大師智顗禅師から菩薩戒を受けた、熱心な仏教信者でした。十一月八日、相公節度使李徳裕は開元寺に参詣し、本堂前で請益僧円仁と留学僧を呼んで相見し、安穏か否かを問うたのですが、相公の前後左右に従う武職は二百名、文官四十名という大がかりな一行です。

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