慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その20-

○十一月十六日、書状の啓を作り、相公李徳裕に提出し相公が開元寺に来て慰問してくれたことに感謝の気持を伝え、兼ねて少々の物を贈呈しました。水精(水晶)の念珠二串、銀装の刀子六柄、斑竹の筆二十管、螺子(法螺ホラ貝)①三口、別に贈状を作り、あい同じく函(ふみばこ)にうちに入れ、それらは相公の随軍②沈弁太夫にもたせ交付させました。

○十一月十七日の巳の時、午前十時に沈弁が来て、相公の伝言を述べ、もって啓を受け取ってくれたことに感謝するとのことです。また大螺子の尻を截っていないもの一口を留め、尻を截った小螺子二口とほかの念珠・刀子・筆などは使いに付して返還してきました。さらに虞侯の人を差遣して白絹二疋・白綾三疋を贈与してきました。そこで円仁は謝意を作し、帰りの使いに送らせました。大唐国の今の帝は、諱は昴、名を昴(文宗)といい、先・祖③は諱を純また淳(憲宗)④、訟また誦(順宗)、括(徳宗)、誉また豫・預(代宗)、隆基(玄宗)、恒(穆宗)、湛(敬宗)、淵・虎・武(高祖)、世民(太宗)の音同じ物は尽く諱を避けさせました。これら国諱の諸字は、諸々の書状中で惣じて著さない、これは西明寺僧宗叡法師⑤の教示するところでした。

○十一月十八日、相公が開元寺内に入り、瑞像閣上の瑞像を礼し、新作の像を検校しました。しばらくして、随軍太夫沈弁が走って来ていうには、「相公さまが和尚⑥らをお招きです」と。聞くやいなや、使者とともに往き閣上に登りました。閣上では相公、監軍ならびに州郎中、郞官、判官らが皆椅子につき、喫茶していました。円仁の来るを見るや、皆起立して、手で立礼を作り、「さあさあご一緒に坐りましょう」といって、ともに椅子に坐り、茶を啜(すす)りました。相公一人、付き従う面々は郎中以下判官以上惣じて八人、相公は紫衣を着、郎中及び郞官三人は緋(あか)色の衣を着、判官四人は緑衫、虞侯及び歩騎軍ならびに大人らは前とは異なりません。相公は円仁らに向かって坐に近づけ、「御国は寒いのですか、否ですか」と聞きました。留学僧がいうには、「夏は暑く冬は寒いのです」と。相公がひきとって、「この中国と同じです。続いて相公が聞くには、「仏寺は有るのですか」と。「仏寺はいたって多いのです」と答えました。また相公がいうには、「道士は居るのですか」と。日本僧の答え「道士は居ません」と。相公の質問、「御国の都城の広さはどのくらいか」と。答え「東西十五里、南北十五里です」と。また相公が聞きました。「坐夏(夏安居)はありますか」と。有りと答えました。それから相公はいろいろ会話をし、慇懃に円仁たちを慰問したのです。情を交わすことがひととおり終わると、お互いに会釈して閣を下り、さらに観音閣に到り、修法の事を検校しました。

【語句説明】

①螺子(法螺ホラ貝)・・・螺子は一般にホラ貝のこと。青螺子は夜久貝すなわち夜光貝をいうのであるが、大小を問題にしているのでホラ貝の可能性が高い。なお正倉院宝物の螺鈿の琵琶や螺鈿鏡の貝は夜久貝すなわち夜光貝である。夜久貝は平安時代の『枕草子』にも出るが、大きな杯にした。夜久は鹿児島県南方海上の屋久島に因む貝の名称であるが、慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」のこの記事は当時唐中国で螺鈿原料の螺子が極めて珍重されたことを物語っている。②随軍・・・以下に出る監軍などとともに唐後半期の節度使藩鎮跋扈の時代、節度使配下の武官武将らの職名である。③先・祖・・・中国では先は父母、祖は祖父母である。日本の先祖代々のような何代前の祖先をいうことはない。逆に子孫は子と孫である。④淳(憲宗)・・・以下に挙げる唐皇帝の諱は、皇帝歴代の順に誤りがある。⑤西明寺僧宗叡法師・・・終南山宗叡、揚州滞在中の円仁らの悉曇(梵語・梵字学)。唐語の先生であった。⑥和尚・・・唐時代で和尚は鑑真和上の和上とともに僧侶に対する尊敬語であった。それが元明以降、僧侶に対する蔑称、差別語に転化した。『水滸伝』の一〇八人の豪傑の一人、花和尚呂尚はならず者、破戒僧である。

【研究】

揚州開元寺滞在中の慈覚大師円仁と土地の支配者節度使李徳裕相公との対面。相公の円仁一行の慰問、種々日本国情御尋ねの問答は今日の日中関係の出会いにも通じるものがある。さらに、李徳裕相公に贈呈した品々である水精(水晶)の念珠二串、銀装の刀子六柄、斑竹の筆二十管、螺子(法螺ホラ貝)三口は円仁の時代の百年前の奈良天平文化の正倉院宝物として蔵される物を彷彿させる。唐文化・文明を世界基準とした奈良平安の日本古代人の文明開化の成果がいかんなく提示されているのである。なお、慈覚大師円仁と相公李徳裕との会見の場は当寺の瑞像閣上であるが、そこに三尺の白檀釈迦仏像を祀る。瑞像飛閣は隋煬帝代に栴檀釈迦像四躯が西天より閣上に飛来した奇瑞を記す。