慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その16-

○十月二十三日、沈弁①来りて云う、「彗星の出るは、すなわち国家大いに衰え、兵乱に及ぶ。東海の主鯤鯨の二魚視するは、占うに大怪となし、血流して津②を成す。これ兵あらたまり衆起こり、天下を征すなり。揚州にあらざればまさに上都なるべし。さきに元和九年③三月二十三日夜、彗星東方に出づるに、其の十月に到り、宰相の反に応じ、王相公以上の討殺あり。宰相(王涯)および大官らはすべて二十人、乱殺せられしものは計るに万人以上なり」と。僧らは事いまだ定かならずといえども後のためにこれを記す。夜に入り曉に至るに、房を出で、この彗星を見た。東南隅に在り、その尾は西を指す。光は極めて分明にして、遠くにしてこれを望めり。光の長さは合わして十丈(30メ-トル)以上有り、諸人みな云う、「これ兵剣の光なるのみ」と。

【語句説明】
①沈弁・・・円仁『入唐求法巡礼行記』の前出、開成三年八月二十六日条に「李相公(李徳裕)の随軍沈弁とある。節度使の政治顧問的文官である。
②津・・・津は一般的には港の意味で、滋賀県琵琶湖に大津、草津があり、伊勢湾三重県にはただ津があり、九州には海港で唐津がある。
③元和九年・・・実は文宗太和九年、八三五年である。甘露の変と呼ぶ。宰相王涯らが宦官の横暴粛正のため、文宗と謀議して事を起こそうとしたが、逆に宦官仇士良が計略を見破り、軍事権を発動して、「宰相反す」として王涯ら一統を逮捕殺害してしまった。事件後まもなく皇帝文宗は改元して開成となった。円仁が唐に到るわずか三年前の出来事であった。この事件で文宗は安らかなることを得ず、その崩御を早めたとされる。

【研究】
円仁が入唐した時は唐王朝存亡に関わる多難な時期であった。不安の原因は宦官専横にある。後漢、唐、明の三王朝は中国史上最も宦官の勢力が強く、政治混乱の時代であった。宦官は軍事権をも手にして文人官僚と対立抗争する。入唐したばかりの円仁には事情はよく分からない。彗星の出現に怯える中国側の人びとが唐の世情を話す。これを「僧らは事いまだ定かならずといえども後のためにこれを記す」としている円仁の態度は賞讃に値する。落ち着いているのである。

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