○十二月二日、本国留後の官①、惟正等をして受戒せしめんが為に、更に相公に牒せり。先に所由を牒送②すと雖も、而して勾当王友真③、路間に失却④したれば、よって今更に牒送す。その状は別のごとし。
○十二月八日、国忌の日⑤である。五十貫の銭をこの開元寺に布施、五百人の僧に供す。早朝、諸寺の衆僧この当寺に集まり、東北西廂の裏に列坐す。辰の時(午前八時ころ)、相公及び将軍らが寺に入り、大門より相公及び将軍は並んで行列してきた。陣兵が前後左右に威儀を正し、州府の諸司がその後に従う。講堂の前の基壇の階段の下に到り、相公と将軍は東西に別れた。相公は東に向かい東幕のうちに入り、将軍は西に行き西幕のうちに入った。しばらくして靴を改め、手をすすぎて出て来る。殿前に二橋あり、相公は東橋から登り、将軍は西橋から登った。曲りておのおの東西し、来りて堂の中門に会し、座について仏に礼された。堂の東西の両門にはおのの数十人の僧が並び立ち、おのおの造花の蓮華並びに碧幡を捧ぐ。一僧が磬を打ち、「一切恭敬し常住の三宝に敬礼す」と唱えた。おわってすなわち相公と将軍とは起立して香器を手にし、州官はその後に従う。香盞を取って東西の各行に分配した。相公は東向して去り、花幡を持った僧が前導し、同声にて梵唄を作した。如来妙色身らの二行の頌である、始め一老宿僧が従い、軍兵また随衛して廊下を行く。ことごとく衆僧が行香しおわり、その途より帰還し、堂を指してめぐり来り、梵唄をなして已まず。将軍は西に向かって行香する。また東の儀式に同じ。時を一にして来り本処に会す。この頃東西の梵唄の音が交響すること絶妙なり。唱礼師は不動独立。打磬があって梵唄は休止。そこで再び「常住の三宝に敬礼す」と。相公と将軍は共に本座に坐して、行香の時の受香の香炉を捧げ、並んで坐す。一老宿の円乗和上が呪願を読む。唱礼師は天龍八部などの頌と唱える。趣意は皇霊を厳にするにある。一行の尾ごとに「常住の三宝に敬礼す」という。相公と諸司とは共に立って仏に礼し、三四遍唱えおわる。そこでおのおの随意となる。相公らは軍兵を率いて堂後の大殿裏で飯を食べる。五百人の衆僧は廊下で飯を食う。寺の大小に従って僧を招くこと多少あり。大寺は三十、中寺は二十五、小寺は二十、みな一処に座を作る。寺ごとの勾当を遣わしおのおのの供を弁ぜしめ、処処に勾当しておのおの供養す。その設斎は処を一にすることを遂げざるも、時を一にして飯を施し、時を一にして食べおわる。座を立ち散会、本寺に帰る。この日相公は別に銭を出し、勾当を両寺に遣わし、湯を沸かし、諸寺の僧を浴せしめ、三日を期とした。
【語句説明】①本国留後の官・・・遣唐使幹部一行が上京中、揚州の残留部隊の責任者をいう。当所の邦人の庶務を決裁する、②牒送・・・行記抄本は帖送と書す。意をもって改めた。③勾当王友真・・・勾当は唐後半期、節度使配下の下級軍将を臨時の外国僧の応接に任じた。王友真の伝は不詳。④路間に失却・・・路上で失脚してしまった。⑤国忌の日・・・『唐大詔令集』巻七八、文宗大和九年四月の増忌辰設斎人数勅に、「十二月八日忌辰、五所寺観において、共に四千人斎を設く」とある。
十二月八日の忌辰は敬帝崩御の日である。
【研究】
揚州開元寺滞在中、十二月八日、慈覚大師円仁は唐国の国忌すなわち歴代皇帝の一人の命日の法要である設斎を経験した。驚くべき詳細な法会の描写書留、帰国後に日本での天皇仏事を夢見ての賢明な努力である。
それにしても揚州開元寺の法会の主役は僧侶ではなく、当地の節度使相公李徳裕とその腹心参謀の将軍であり、それが東西に別れて行列を組んで当寺本尊仏の前に進香する。中国仏教の特徴を如実に表している。