釈迦如来、お釈迦さまの話-その10-

出家・在家 釈尊時代の仏教社会は出家の仏弟子と在家の一般信者との両者の仏教信者から構成されます。出家の教団は一般民衆を指導教化する専門家の集団であり、民衆は在家の信者として、専門家の出家から精神的に指導救済をうけるかわりに、出家者に対して物質的な衣食住などを布施供養しました。両者は精神・物質の両面で共生依存の関係を作り、人生の有意義な目的実現のため努力し、幸福平和な理想社会の建設を期したのです。その目的は次第に実現し、仏教は当時の正統・非正統の宗教教団の中で最大の勢力となりました。出家者ははじめは男の僧侶の比丘のみでしたが、やがて女性の出家者である比丘尼教団も発生し、戒律は男女別々となりました。

釈迦の説法 釈尊の布教は説法が中心です。釈迦は三十五才で菩提樹下でさとりを開き、宇宙人生の真理をさとったのですが、その後どうしたらそのさとりを人びとに了解させられるか、種々試行錯誤して深く考察しました。八十才で亡くなるまで四十五年間、つねに諸地方を巡歴し、あらゆる階層の人びとにその教えを説きました。上は国王大臣から下は最下層の差別された人びとまで、あくまで差別は否定し、人間平等にという信念に燃え、賢者愚者の区別なく、どのような人びとにもわかるように、理解できるように説きました。釈尊の活動の地域は北インド、ガンジス川中流域一帯で、およそ南北五百キロメ-トル、東西八百キロメ-トルの地域です。東京から広島近くの地域です。

釈迦の言語 釈尊の時代の正統バラモンの言語はサンスクリット語でした。西のギリシャ語に似たア-リア民族の言語で文法の整備された格式高い言語でした。インドエリ-トに相応しい言語でした。もとバラモン教徒から釈尊の弟子となった兄弟の仏弟子が居ました、釈尊の高尚なさとりの内容を卑俗な言語で説くことは仏教の冒涜になると考え、釈尊にサンスクリット語で説法するように願いました。釈尊はその要求を却け、だれでも理解できる一般民衆の言語で説くと宣言し、サンスクリット語の採用を禁止しました。この言語方針はのちに仏弟子の幹部に継承されて南伝の上座部系仏教となり、スリランカ・ミャンマ-及びタイ国ら東南アジア仏教となります。他方、釈尊後三百年以上経過した西北インドからアフガニスタン地方のギリシャ人に伝わった改革派仏教はギリシャ語に近いサンスクリット語で経典が作られ、ここに仏教に二大潮流が生じたのです。こちらを大乗仏教と呼びますが、後に詳述します。

以下次号