慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その32-

○開成四年閏正月五日、雨ふる。夜に入り雷鳴あり。電光浩雨は夏月の雷雨に似たり。自後、望(十五日)に至りて始めて晴れぬ。相公李徳裕が開元寺瑞像閣を修理のため、講を設けて募縁①す。正月一日より始め今月八日に至りて講おわる。銭五百貫をもって木を買い、曳いて寺の庭に置く。かつ勾当②はこれを整え削りせしむ。本国朝貢第一舶使下③の水手・射手六十余人、皆病に臥して辛苦せり。
○閏正月十九日、天台山禅林寺僧敬文④来り、あい見ゆ。書して云うに、「敬文は天台山禅林寺に住し、師に随いこの山中に在り、出家二十一夏⑤、四分律南山鈔⑥を学び、天台法花経止観⑦を学ぶ。去年十月初三日、寺を離れ浙西蘇州⑧に至り、日本国が使の進献有り、大和尚のあい従う有るを知る。ゆえにここに尋ね訪う。敬文また童年の時において、和尚行満に随い、最澄闍梨⑨の来り、天台教門を取るに見ゆ。爾後計るに已に三十年。未だ(最澄闍梨の)消息を得ざるに、たまたま澄大徳已に霊変するを聞き知り、道門哀喪するに、当にいかんすべき。いくばくも無く,満和尚却って来り天台山に入るも、満和尚は已に亡化し、十六年を経る。敬文二大徳⑩の在るを聞き、故にここに尋ね訪う」と。請益僧(円仁)は書していう、「この円仁はこれ前人唐の澄和尚の弟子、天台の遺迹を尋ねんため、来りてこの間に到る。勅の未だ下らざるに縁り、しばらくこの寺に住し、進発を得ず。請うこれをあきらかにせよ」と。敬文は書して云うに、「最澄和尚は、貞元二十一年(805、延暦24年)、天台山に入り、後に本国に帰り、深く得達せるを喜ぶ。将来するところの天台の教法、彼の土の機縁いくばくぞ。彼の国に当時儲君(聖徳太子)⑪はこれ南岳の示生⑫というも、後の事宜をして委かにせず。今既にこれ澄和尚の弟子、勅の未だ下らざる前に、何ぞ天台山に入りて待たざらん、忽としてここに住し、久しきを経て、勅の下り来れば、遣唐使は即ち本国に発還せん。如何ぞ更に従容を得ん、云云」と。請益僧(円仁)問うに、「未だ彼の天台山国清寺にいくばくの僧、いくばくの座主在るを審らかにせず」と。敬文答えて云うに、「国清寺は常に一百五十の僧有り、久しく住す。夏節には三百以上の人の泊まる有り。禅林寺は常に四十人の住有り、夏は即ち七十余人なり。国清寺に維蠲座主⑬有り,毎に止観を講ず。広修座主の下に業を成し、禅林寺は即ち広修座主の法花経止観・玄義を長講す。冬夏闕かせず。後学の座主また数人有りと云云」と。多く語話あって、もしくは今は、当揚州の恵照寺禅林院に在住し、暮れに帰り去った。

【語句説明】①講を設けて募縁・・・李徳裕が開元寺瑞像閣を修理のため、金剛般若経などの俗講を開き募金集めをする。②勾当・・・寺院における諸事業を運営管理する役。③本国朝貢第一舶使下・・・ここはライシャワ―教授、小野勝年氏ら従来の研究者が全く注意を払って居ない個所であるが、本国すなわち日本国の朝貢第一船舶の使節という。突然な言い方でいかにも不自然である。遣唐使が朝貢使節である書き方をしている。円仁の承和の遣唐使は事実上最後の遣唐使であったが、遣唐使藤原常嗣のもたらした「大唐勅書」を唐朝からの返書と伝えられていることは、日本からの国書持参を裏書きするものであると高橋善太郎氏(「遣唐使の基礎的研究」『愛知女子短期大学紀要』1、『アジア歴史事典』3,平凡社、1960年)はいう。朝貢の記事についてはとりあえず不詳としておきたい。④天台山禅林寺僧敬文・・・禅林寺は天台山仏隴に在り、国清寺と共に天台の名刹として知られる。当寺の敬文の所伝は不明。ただ、円仁の後に入唐した円珍のほか、真言宗の安祥寺恵運などにも出会った史料があり、要注意の唐僧である。⑤出家二十一夏・・・普通二十才前後で出家したとすると、21年経つと年40才くらいであるが、開成四年(839)は貞元二十一年(805)から34年後であるので少なくとも45才以上である。⑥四分律南山鈔・・・『四分律刪繁補闕行事鈔』の略、一に『四分律行事鈔』とも言い、唐道宣の貞観四年の撰述。⑦天台法花経止観・・・天台大師智顗『摩訶止観』のこと。⑧浙西蘇州・・・蘇州に来て敬文は日本から円仁らが入唐して揚州滞在していることを知った。大運河で結ぶ蘇州と揚州の情報ル―トが確認できる。⑨最澄闍梨・・・闍梨は阿闍梨、真言密教的称号、密教と結ばない中国天台にはその称号はない筈。故に不自然。⑩二大徳・・・請益僧円仁と留学僧円載。⑪儲君・・・皇太子すなわち太子で、聖徳太子のこと。⑫南岳の示生・・・聖徳太子が南岳慧思禅師の再生という伝承は鑑真和上『東征伝』などが初見で平安時代の『延暦僧録』などに継承され、最澄・空海の作成文書に多く見える。日本側の伝承が唐側にも広まった。⑬維蠲座主・・・小野勝年氏は別の史料の維幻と同一人という。

【研究】
揚州開元寺滞在中、開成四年閏正月五日の李徳裕が開元寺瑞像閣を修理のため、金剛般若経などの俗講を開き募金集めをしたことを仏教布教の新手法として円仁は注目している。半月後の閏正月十九日、天台山禅林寺僧敬文が来て円仁に見えた。円仁の天台山行きの希望を受け止めるふりをする。昔も今も、中国にはこの手の曲者が多い。