仏像の姿 ここでどうしても触れておきたいことは仏像がどういう姿をしているか、どんなお顔をされているか、手や足の状態は何を意味しているのかです。これらの問いは実に多様性に富み、面白い問いです。
仏像が無かった時代には、お釈迦様の遺骨、遺歯、遺髪などお釈迦様の身体が塔に埋められ信仰されました。説法のため各地を踏破した足跡が石に刻まれ仏足石として信仰されました。それらはいずれもお釈迦様の説法縁の信仰の対象です。そうした無仏像時代は釈尊入滅後五百年以上もありましたが、紀元前後の頃、西北インドからアフガニスタンの地とインド最北部の二個所に仏像が出現しました。人びとが仏像を作ろうと思った時、まず注意しなければ成らなかった課題は偶像問題です。それがもっとも多様に発展した地域はエジプトで、古代エジプト文明は多様な偶像が発達していました。さらに東方のイランやインドでも偶像崇拝があったといわれます。それらは多く多神教でした。それに対してエジプトにも宗教改革で一神教的な宗教が紀元前14世紀にありましたが、後世への影響は不明です。古代西欧文明の元祖ギリシャ文明も多神教で神像が作られましたが、偶像崇拝的では必ずしもなかったようです。その影響を受けて紀元前後に仏教では仏像が作られました。釈迦の修行の姿や釈迦の生涯が彫刻に刻まれました。
さて、仏像がどういう姿をしているか、どんなお顔をされているかについては、仏教徒が釈尊を理想的な人物としたので、できるだけ気高く気品に満ちている必要があります。つい手を合わせたくなるお姿が大事です。初期の仏像には、ギリシャ彫刻の神像の影響を受けたガンダーラ仏では哲学的思索する仏陀があり、修行の厳しさと思索する難しいお顔をしています。それに対してインド最北部のマトウーラ仏はさとりを開いた喜びに満ちた笑顔のお顔をされています。この両者が複雑に関係し、影響しながら、周辺の土地から四方の遠隔地に伝わって行きました。それぞれの地方、国々の文化伝統の違いによって差違の見られる多様なお釈迦様の仏像が作られました。それでもその国々の人びとが理想的な人物像としたことは共通します。さらに仏像を作る材料は始めは石像でしたが、最高の石とされる玉製や水晶製もあります。金銅製、まれに鋳鉄などの金属製は金・銀製を最高とします。それが仏教が伝わった最遠方の日本では木造が普及しました。インドや東南アジアにも木製仏像がありますが、白檀・紫檀などの檀木製が香り高い仏とされました。日本には檀木は無いので、楠樟や桧製、さらに欅、栢木なども仏像材料に選ばれました。なお、日本への仏像渡来は六世紀に朝鮮半島の百済から金銅仏が伝わったとされますが、三世紀に邪馬台国の卑弥呼に魏王朝から下賜された鏡の中に仏像が刻まれている仏像鏡が最初です。この仏像鏡出現の意味は実は東アジアの仏教の歴史だけでなく、中国文化や日本文化の歴史を考える上で新しい考えとなります。
以下次号