△鯉はコイ科の淡水硬骨魚。上あごに2対のヒゲがあり、口には歯がなく、のどに10個の臼歯。頭を除いて表面は丈夫な丸形鱗でおおわれ、背面一列はおよそ36枚なので、別名六六魚とも言われ、「六六変じて九九鱗となる」と言う中国の諺は、龍は81枚の鱗があるとされての話です。河南省洛陽上流で山西省から陝西省に黄河を渡る辺りに「龍門」と呼ばれる急瀬があり、特に優秀な鯉だけが登って龍になると言われ「登龍門」の言葉が生まれ「出世魚」と称されました。
△鯉が龍になり、龍は雲を呼んで恵みの雨を降らします。寺社の建築に雲や龍が多いのは、魚は水に縁があり、火除けだけでなく、生命の根源たる水への願いでしょう。
△中国官人の身分標識である魚帯は紡錘形で形も美しく、日本でも公家の束帯着用時の装飾具となりました。その他報知具の魚板にも使われました。
△『日本書紀』景行天皇四年二月十一日、「鯉魚コイを池に放ちて、朝夕に臨視して(見て)遊びたまふ」とあり、日本では4世紀前半の頃、すでに食用だけでなく観賞用にも鯉は飼育されていました。
△8世紀の『常陸国風土記』香島(鹿島)郡に「北に沼尾の池あり。鮒フナ、鯉コイ多(さわ)に住めり」「松山の中に一つの大きなる沼あり。鯉コイ鮒フナ住めり」とあるのは野生種で、ふつう全長60㎝くらいにもなり肉厚で食用に養殖もされ珍重されました。
『蜻蛉日記』安和元年「また、こゐ(鯉)すずき(鱸)など、しきりにあめり」
『徒然草』一一八「鯉の羹アツモノ(熱い吸いもの)食ひたる日は、鬢ビンそそげず(耳ぎわの髪がばさつかない)となん。膠ニカワにも作るものなれば、ねばりたるものにこそ。鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やん事なき魚なり」(主上の御前で調理されるので、貴い魚である)。同書二三一「園の別当入道は、さうなき庖丁者なり」とあり、酒宴の際貴人の面前で鯉を調理して見せ、庖丁式、庖丁道と言い、四条流、大草流などの流儀があります。鯉料理は丸のまま筒切り(輪切り)にして煮込んだ赤味噌汁鯉濃コイコクの他に、
○鯉の水作り(鯉の洗い)薄くそぎ切りにして氷水または冷水で洗い身を縮ませたのを賞味する。
○鯉の糸作り、三枚におろして細長く糸のように作った刺身。
○鯉の胃入り汁、鯉の肉、胃や腸を入れた味噌汁。
○鯉のけぎりの汁、鱗も一緒に入れた汁料理。
○鯉の衣コロモ煮、ウロコを皮付きでとり、角切りにして塩を入れて煎り酒を入れて煮、身は三枚におろして一寸角に切り味噌、塩、酢で味つけ盛りつけた上に先のウロコを散らして出す。
鯛の「海魚の王」に対し鯉は「川魚の長」と言われ、夏はアライ、冬はナマス、コイコク、あめ煮、生作り、丸揚げなど四季を通じて賞味され、縄文時代以来の重要な食料でした。
△雑食で水中のミジンコ、ミミズなどの小動物、水草などを食べ環境に対する抵抗力と繁殖力が強く、嫌われ者になることもあります。鯉は食用だけでなく、観賞用としても古くから養殖され、鮮やかな色出しのための餌を工夫して育てた最近の錦鯉はニッポンコイとして愛玩され珍重されています。水の中を悠然と泳ぎ、餌をもらう時は大騒ぎですが、人の足音を聞き分け、何より新入りの鯉が入って来ても決してイジメたりしません。寒い時は水底で動かず、水温が20度近くなるまでは餌を与えず、夏から秋に成長です。のびやかに出来れば立派に成長して欲しいの願いを込めて、江戸時代以来、五月五日の端午の節句は、出世魚とも言われる鯉の形を作り、竹の先につけ、男子を祝って来ましたが、戦後子供の日とされ、特別に柏餅や粽は食べますが、住宅環境の変化で鯉のぼりを立てることも少なくなりました。
童謡「鯉のぼりの歌」 近藤宮子作詩
1番 屋根より高い鯉のぼり 大きなまごい真鯉はおとうさん 小さなひごい緋鯉はこどもたち おもしろそうにおよいでる
2番 みどりの風にさそわれて ひらひらはためく吹き流し くるくるまわる風ぐるま おもしろそうにおよいでる
小学唱歌「鯉のぼり」 弘田龍太郎作詩
1番 甍いらかの波と雲の波 重なる波の中空を橘かおる朝風に 高く泳ぐよ鯉のぼり
2番 開ける広きその口に 舟をも呑まん様見えて ゆたかに振う尾ひれには 物に動ぜぬ姿あり
3番 百瀬の瀧を登りなば たちまち龍となりぬべき わが身に似よや男の子と空に躍るや鯉のぼり
●甍いらかは瓦葺きの屋根。中空なかぞらは空の中ほど。