慈覚大師円仁讃仰「入唐求法巡礼行記」研究-その28-

○開成四年正月八日、新羅人王請①来りあい看ゆ。これ日本国弘仁十年(819)、出州国(出羽国)に流着の唐人張覚済②ら同船の人なり。漂流の由を問うに、申していう「諸物を交易せんがために、これを離れて海を過ぐ。忽ち悪風に遇い、南流すること三月、出州国に流着せり。その張覚済兄弟二人は将に発たんとする時に臨み、同じくともに逃れ、出州に留りぬ。北出州より、北海について発ち、好風を得て、十五箇日、長門国に流着せり云々」と。頗る日本国語を解す。
○正月九日、図きて南岳・天台(両大師)影を写し③畢りぬ。
○正月十四日、立春、市人④は鶯を作り⑤、これを売る。人買いてこれを翫(もてあそ)ぶ。
○正月十五日、夜、東西街中、人宅に灯を燃す。日本国の年尽晦夜と殊ならず。寺の裏灯を燃やして、仏を供養す。兼ねて祖師の影を奠祭す。俗人もまたしかり。当寺揚州開元寺仏殿の前に、灯楼を建てた。階段の砌下・庭中及び行廊の側に、皆灯油を燃やした。その灯盞(さら)の数は計り知るにいとまあらず。街裏の男女は深夜を憚らずして寺に入り事を看る。供灯の前では、分に随いて銭を捨す。巡看いでに訖れば、更に余の寺に到り、看礼し銭を捨す。諸寺堂裏并びに諸院、皆競って灯を燃やす。来り赴く者有らば必ず銭を捨して去る。無量義寺⑥は匙灯・竹灯⑦を設けた。その匙竹の灯樹は構作のかたち、塔の如しである、結い絡めたるのさまは、極めてこれ精妙である。その高さ七、八尺(2・1~2・4メ-トル)ばかり。ならびにこの夜から十七日夜に至り、三夜を期となせり。

【語句説明】
①新羅人王請・・・詳細不明であるが、新羅商人だろう。日本語に堪能である。②弘仁十年(819)、出州国(出羽国)に流着の唐人張覚済・・・『日本紀略』弘仁十一年四月戊戌に唐人李少貞ら二十人が出羽国(秋田県)に漂着したことが見える。別名であるが、唐人張覚済ら兄弟は逃亡して出羽国に不法逗留したというから、事実は否定できない。いずれにしても漂流民一行のうち新羅人王請らは日本海を西し長門国(山口県)に至って帰国したのである。③南岳・天台(両大師)影を写し・・・南岳・天台両大師の影像を画くことは、前年開成3年(838)12月9日の条に記事が見えるが、それが実行に移されたのは年が代わり開成4年正月3日のことであった。それが7日目に完成したのである。④市人・・・小野勝年氏は行商人と解したが、開元寺門前の露店商人と解したい。市は市場の市。⑤鶯を作り・・・立春の日に「梅に鶯」の鶯の木彫を「迎春」のために売るのであろう。因みに九州大宰府天満宮、大阪・東京亀戸各天満宮には鷽(うそ)替えの神事がある。それで、円仁行記の鶯の字は鷽の可能性もある。そうなると、鷽替え神事は朝鮮半島系の蘇民将来行事と従来は言われて来たが、唐=中国の迎春風習に直接に繋がるものとも理解される。

【研究】
開成四年(839)正月八日、九日、十五日の江南揚州開元寺を中心にした正月行事が続く。特に正月十五日夜から十七日夜の三夜にわたる万灯会は開元寺伽藍至る所に灯明がともされた華麗盛大な行事である。しかも、開元寺だけでなく揚州市内街路至るところの寺院で一斉に万灯会が開かれる。揚州は三夜この世の浄土極楽世界をつくるのである。慈覚大師円仁がいかに感動したか、想像するに余りあるものだ。