本誌『如意輪』連載の「元三大師のお話し」は第57号より、元三大師の属す慈覚大師法脈と異なる智証大師円珍について述べている。
八、九世紀の中国は唐という王朝で国際性豊かな文化は律令制度や均田制、租庸調制度、科挙や官僚制度など東アジア各国諸国の国造りの典型です。そのため日本では七世紀初頭の聖徳太子が小野妹子を隋に派遣したことに始まる遣隋使、遣唐使の一大国家事業を行った。ただ、八世紀の奈良時代の半ばを境として、もはや学ぶべきものは無い状況になり、使節派遣の熱意が急速に冷めます。かわって仏教の交流、特に伝教大師最澄の天台宗と弘法大師空海の真言宗という平安新仏教僧侶の入唐求法が盛んになりました。特に天台宗では慈覚大師円仁と智証大師円珍の中国南北の旅行が挙行されたのです。その成果は厖大なものですが、ここで当時の仏教の性格に関わる重要な課題を挙げて置きます。
続きを読む
アーカイブ
拝島大師の七五三
拝島大師のお大師さまは醍醐天皇延喜一二年(九一二)九月三日のお誕生で、幼名を観音丸と言い、小さい時から聡明な児でした。十二歳の延長元年(九二三)五月三日、比叡山に登りました。それからお坊さんに成るため、一生懸命に学問修行に励みました。数年にしてその学徳は比叡山のトップクラスに抜きん出、延長六年、十七歳で天台座主尊意について得度出家し、良源と名乗りました。翌年には比叡山の論議、すなわち仏教論争で名声を挙げ、ますます学問修行に励みます。朱雀天皇承平七年(九三七)、二十六歳の大師は奈良興福寺の維摩会に比叡山延暦寺を代表して出席します。天皇の勅使の房で論義があり、法相宗の学僧を論破しました。名声が朝廷に聞こえ、天慶二年(九三九)藤原氏の有力者であった摂政藤原忠平に認められました。忠平が薨去した天暦三年(九四九)に比叡山北辺横川に隠棲し、忠平の没後の追善を行いますが、翌年には皇太子護持僧となり、さらに同八年(九五四)横川法華三昧堂を落成して忠平の嗣子師輔を迎えました。師輔は藤原氏の五摂家の九条家の祖とされる有力者で藤原道長の祖父に当たります。大師は藤原師輔の外護を受けることになります。藤原氏の本流と結んだ比叡山延暦寺は仏教界最高の地位を獲得するのです。多くの秀才が比叡山に登り、大師良源の弟子になりました。恵心僧都源信や檀那流覚運阿闍梨、書写山開祖の性空上人などが有名で、お弟子の数は三〇〇〇人と言われます。
続きを読む
平成の『大般若波羅蜜多経』納経の御願い
拝島大師本覚院には幕末、安政五年(一八五八)三月三日澄俊代の箱書き墨書納経年の有る『大般若経』六〇〇巻があります。
納経者の施主村落名や氏名など『如意輪』紙上で紹介しました。この『大般若経』六〇〇巻は毎年、文殊楼縁日の正月成人の日に行われる大般若経転読会に用いますが、幕末以来、関東大震災、昭和の太平洋戦争、等々、幾多の試練を越え、相当に老朽化しています。拝島大師の貴重な歴史資料でもありますので、永久保存のため経蔵堂輪蔵に納めることにしました。つきましては皆様に平成の『大般若波羅蜜多経』納経の御願いを致すことになりました。そもそも納経は古来千数百年の歴史がありますが、我が国では、東大寺・正倉院所蔵の光明皇后御願経が有名です。光明皇后が書写させた一切経には天平十二年(七四〇)五月一日の納経日付があるので「五月一日経」と呼ばれます。
続きを読む